エターナルクレスト(オリジナル)

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 君はいつも偉大だ。 物心がついた時から、僕の目には常に雄大な山容が広がっていた。 「もうすぐ、お父さんが帰ってくるわよ」  白く星型の花、エーデルワイスの刺繍が施された布地。体にフィットし、膝下で裾が広がっているチョラと呼ばれる民族衣装を身にまとう母が窓の外に目をやった。  快晴でない限り山頂は滅多に姿を見せることはなく常に雲に覆われている。予定だと父は下山し、今日中には村に帰ってくるだろう。  標高八千九百八十五メートル。エターナルクレストは世界一高い山として有名で、春から秋にかけての登山客が後を絶たない。僕の父は、この山のカリストをしている。カリストとは『山の仕事人』という意味。カリストの仕事は四種類。 一、登山ルート整備。 二、救助。 三、ポーター(荷物運び)及びベースキャンプ設営。 四、ガイド(案内人)  登山要請がされ、登山者の荷物が届くと最初に動くのはポーター達だ。登山者の滞在日数は平均六十日。人数により異なるが、荷物は大量になる。約二十人のポーターが平均三十キロぐらいの荷物を背負い、十二匹のヤクに荷を縛りつけて運ぶ。ヤクは高地に住む牛に似た動物で、僕らの村ではほとんどの家がヤクを飼い乳を飲んでいた。  ベースキャンプの設営が終わると、ルート整備確認が行われる。この段階になり、やっと登山客はベースキャンプ入りって訳だ。 父、プラダはガイド。ガイドは登山客に一番近い存在であり、登頂から下山まで登山者の安全を担う役割り。  僕らの住むプシャは、エターナルクレスト山の麓にある人口三千人ほどの小さな村だ。高地に暮らす山岳民族で強靭な肉体を有しているのが特徴。ゆえに村の男達のほとんどがカリストの仕事に従事しているのだ。  登山は常に命の危険が伴う。だが、男はカリストになりたがる。理由はリマ(金)だ。母に聞いた話だと、国の平均収入は一か月で十二万リマ(十二万円)だそうだ。カリストは、いち登山で六十万リマもの大金を稼ぐ。ガイドは責任が重いので報酬はもっと上。カリストの男が働き手の家は裕福なのだ。  高い位置に枝を広げ、長くしなやかな緑の葉が波打つポプラが目印の村への出入口。村人はカリストの帰りをここで待つ習わしだ。母と待っていると、遠くからカラフルなウェアーの集団がこちらに歩いてくるのが見える。その中で一番背が高く逞しい男。それが父だ。 「カブラ!ラン!」  カブラは母の名、ランは僕。父さんは誇らし気に二本のストックを高く掲げた。 「プラダ!」 走り寄り父に飛びつく母。 「無事で良かった!」 父は力強く筋肉質な腕で細い母を抱き締める。 「俺はいつも無事さ。毎回、約束するだろう?必ずお前達の元に帰ってくると」  このラブシーンは、両親だけではなく、周囲のあちこちに見られる。カリストが登山を終えると必ず行われる見慣れた恒例行事。これが終わると、皆で村の名前の由来でもある山の神様、プシャの岩に感謝の祈りを捧げるのだ。  帰宅すると特別なご馳走が待っている。山に滞在中、髭が長く伸びてしまった父は、まず風呂に入り髭を剃った。皆んなで椅子に座り『いただきます』の祈りを捧げる。祈りポーズは額に右手の指を軽くあてるだけ。  夕食を食べながら僕は父に言った。 「父さん、真っ黒だね」 「あー、雪焼けだよ。お前は相変わらず細くて白いな」 「白いの弱そうで嫌だな」 スプーンを置き、真っ直ぐ父を見据える僕。 「僕も早く父さんみたいなカリストになりたい!」 父は「ハハッ」と小声で笑う。 「ランはまだ十二歳だろ。中学を卒業してから考えなさい」 僕はテーブルに身を乗り出した。 「村の中学を卒業したらカリストになっても良いの?」 「んー」 父は隣の母を一瞥してから僕に顔を向ける。 「実はランにはカリストになって欲しくないんだ」 「えっ?なんで?」 「カリストが命がけの仕事だからだよ」 「それは、前に父さんから聞いて知ってる。でも僕は父さんみたいな凄いガイドになりたいんだ」  父は村一番のガイド。今まで安全に登山者を導いてきた。 「ラン」 母がスープにくぐらせたスプーンを止めた。 「私達は、お前を首都の高校に行かせたいと考えているんだよ」 「高校に?友達は誰も高校になんていかないよ」 「人は人よ。父さんのおかげでウチにはお前を高校だけではなく大学に進学させるだけの財力がある。ランには勉強を頑張って首都の立派な会社に就職して欲しいの」 「首都の会社に就職してもカリストより稼げないよ。それに、つまらない」 睫毛を伏せる父。 「だが、安全だ」  その夜、僕はベッドの中で自分の将来について考えてみた。村の男友達は、おそらく皆カリストになるだろう。進学なんて嫌だ。やっぱり僕はカリストのガイドになりたい。強くそう思った。  一か月後、父はまたガイドのため山へと向かう。 「必ず帰るよ」 泣きそうな母を笑顔で抱きしめる父。  母は父の出発を見送った後、いつもプシャの岩の前で祈っている。 「どうか、無事に帰ってきてくれますように」  その日から暫く経過した夜、村長であるババ様が青冷めた顔で家を訪ねてきた。 「落ち着いて聞け。今、ベースキャンプから電話があり、プラダとチタが八千メートル付近のクレバスに落ちたそうだ」  クレバスとは氷河の裂け目のこと。たいがい深いと父が言っていたのを思い出す。 『クレバスの平均深さは十メートルから五十メートル付近。これに落ちたら最悪だ。雪崩れより高い確率で死ぬ』 母が叫んだ。 「すぐに救助を!」 「お前も知っておるだろうが、落ちたのはカリスト二人。救助隊は登山者のためにある」 「では、まだ生存の望みがある者を見捨てろと言うのですか?」 「そうではないが、救助には莫大なリマがかかるのだ。お前達にそれが払えるか?」 「蓄えならあります。どうかお願い!夫を見捨てないで!」 「分かった。救助を要請しよう。だが生きている可能性は0に近いぞ。それでも良いのか?」 「はい、例え僅かな望みでも、私はそれに賭けたい!」  チタの妻と母の要請により、ベースキャンプに待機しているカリストの救助隊が動いた。父が落下したのは八千メートル付近。そこまでは徒歩で向かうことになる。  決死な捜索は続く。だが落下したクレバスが深すぎるため二人は発見されず、救助活動は打ち切られた。  遺体なしの葬式が村をあげて行われる。「あああーっ!!」泣き崩れる母。葬儀の間中、僕の視線は一点に固定されていた。参列者の中に、父が担当していた登山者がいたからだ。  登山者の名前は、カーティス、マコーニという外国の中年男性。話しによると有名な登山家らしい。彼はプシャ語が話せるようでババ様と会話している。葬儀後、カーティスさんは僕に歩み寄りこう言った。 「君がプラダの一人息子のラン君だね。黒髪と緑色の瞳。お父さんにそっくりだからすぐに分かった。プラダが自慢してたよ。十二歳とは思えない賢い子だと」  僕はカーティスさんから父の最期を聞くことになる。 「夜明け前の暗闇の中、ヘッドランプを灯し我々はC4(第4キャンプ)から山頂アタックを開始した。先頭はプラダ、二番目がわたし、三番目が登山パートナーのジョルジュ、最後尾がチタの順だ。四時間ほど登り、これから急斜面という時、ジョルジュが『用を足したい』と言ったんだ。プラダはザイル(ロープ)で繋ぐ順番を変えた。先頭がわたし、次がジョルジュ、プラダ、チタになった。もしもチタがクレバスに落下したら自分がピッケルを打ち込み止めるためだと彼は笑って言ったよ。チタは足跡の残る登山道を外れた。それが悲劇の始まりだ」  カーティスさんから放たれる言葉の一つひとつが、凍てつく矢のように心に刺さる。  雪で覆い隠されたクレバス。最初に落下したのはチタだった。カーティスさんは瞬時にピッケルを氷上に打ち込み落下を止めた。振り返ると、そこには誰の姿もなかったそうだ。あったのは千切れそうにピンッと張られたザイルだけ。 「わたしは片手でピッケルをしっかり握り、もう一方の手でアンカーを設置するため、氷のスクリューを深く打ち込みザイルを固定した」  アンカーとはザイルの安全確保。氷のスクリューとは氷上に固定具を設置するためのクライミング器具。先端が鋭く、ハンドルを回すだけで氷に簡単に食い込むようになっている。 「クレバスの形状はジグザグになっていて、ライトの明かりでは闇しか見えない。わたしは縁にへばりつき声をかけた。『大丈夫か?』とな。そしたら小さな呻き声の後、返事があった。間違いないプラダの声だった」 ーーーー 『プラダ無事か?』 『ああ、何とかな』 『他の二人は?』 『上にジュルジュの足、下にチタの頭が見える。二人とも動かない。意識を失っているようだ』 『待ってろ!今、三人とも引き上げてやる』  わたしは全身の力を振り絞りロープを引いた。しかし一人で三人を引き上げることができない。途中、プラダは自らの酸素ボンベを捨てたが、それでも無理だった。再び叫ぶ。 『プラダ、プルージックノットを作って自力で昇ってこれないか?』 プルージックノットとは、メインのロープに対して、別のロープやスリングを巻き付けて輪を作る結び方のことをいう。輪に足をかけ、摩擦を利用。体重を支えて少しずつ昇ることができる。 『今やってる』 プラダからの返事。暫く間が開き、再び声がした。 『残念な知らせがある』 『なんだ?どうした?』 『落下時に、全身を強打したようだ。あちこち骨折している。体重を支えて昇ることが不可能な状況だ』  足をやられては、アイゼンの爪を刺して昇る方法も無理だ。わたしの頭に飛来したのは【絶望】だ。残る方法は、ベースキャンプまで下山し救助を要請するしかない。が、プラダはこう言った。 『それまで酸素はもたない。カリストの俺達なら助かるチャンスはあるが、ジョルジュは確実に死ぬぞ』 『あっ……』  もう頭を抱えるしかない。 『なら、どうしたら?どうしたらいいんだ!!』 『なあカーティス、ジョルジュ一人ならお前の力で引き上げられるよな?』  瞬時に、プラダの質問の意味を理解したわたしは絶叫した。 『ふざけるな!ロープを切るなんて許さんぞっ!!』 『俺達はガイド。登山者の命が最優先だ』 『何を言ってるんだ!命に優先もクソもあるものか!チタまで死ぬんだぞ!!』 『チタは俺の親友。彼が俺の立場だったら同じ行動を取るだろう。それしか助かる道がないからな』 ーーーー  カーティスさんの目から滝のような涙が頬に流れ落ちる。 「最後、プラダは愛嬌タップリにこう言い残しザイルを切断した」 『なあ、登山って金持ちの娯楽だろ?アンタ、金持ちなら最後に頼みがある。俺の家族とチタの家族を飢えさせないでくれ』 「わたしは、プラダの家族、そしてチタの家族を生涯養ってゆく覚悟だ。だから安心してほしい」  最後「ジョルジュは凍傷により片足を切断したが命に別状はない」と言いのこし、彼は葬儀場を後にした。  カーティスさんは同じ説明をチタの家族にも話したようで、学校で同じクラスのチタの長男、アイクから僕は殴られた。 「お前の父親がザイルを切らなければ父さんは生きていたんだ!この人殺し!」  歪んだ表情。恨みに満ちた両目。僕は何も言い返せず、ただ俯くことしかできなかった。  あれから三年の月日が流れる。中学を卒業した僕は、母の泣きの猛反対を押し切り父と同じ道を歩むことになる。
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