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第6話
何だか、変な空気のまま別れてしまったかもしれない。
あの日バスを降りる頃にはもう蛍はいつもの調子に戻っていたけど、結局それっきり蛍の経験数については教えてもらえなかったし、昔の話に触れることもなくおれと蛍はそれぞれの家に帰っていった。
そのうち折を見て蛍に謝りに行くべきか迷っているうちに、ずるずると時間だけが過ぎてしまった。無職で時間の有り余っているおれと違い蛍は仕事をしているのだから、そう気安く家を訪ねるのは気が引けるし、そもそも不自然だ。今まで十一年も顔を合わせることを避けていたおれの方から会いに行くなんて、蛍も引いてしまうだろう。
大体、会って何を話せばいいのか。謝ると言ったって、何に対して謝るべきなのか。
『そんなにあの時のことが気になるの? もう僕たち子供じゃないのに、あんな昔のことをいつまで負い目に感じてるんだよ』
(……負い目、ね)
今までずっと感じていたこの気持ちを、面と向かって誰かに言語化されたのは初めてだった。しかもそれが、あろうことか蛍に指摘されるとは。
おれにとってあれは死ぬまで忘れることのできない出来事で、いや、忘れてはいけない、この気持ちもずっと抱えていなくてはならないものだと思っていた。時間が経てば風化してそのうち消えてなくなるだなんて思っていないし、子供のやったことだからと免罪されるようなことだとも思っていない。
でも、蛍にとってはそれは不愉快なことなのだろうか。蛍にとってあの日のことは早く忘れたい、できればなかったことにしてしまいたい記憶なのかもしれない。
おれがこんなにも忘れられない記憶を、蛍は早く忘れたいと思っているんだろうか。
おれだって、忘れられるものなら早く忘れたい。忘れてしまえばどれほど楽になれるのか。だけど、それは何か違うような気がした。
適当すぎる昼飯の後に自室のベッドでうとうとしていると、外のカーポートから車のエンジン音が聞こえてきて、それはやがて遠ざかっていった。どうやら母ちゃんは買い物に行ったようだ。
職探しは依然として手つかずの状態である。文字通りの穀潰しにならぬよう、せめて家事くらいはやらなくてはならない。家事をしている間だけは、無職のおれでもこの家で生きていることを許されているような気になれるのだ。
そういや風呂掃除、昨日やってなかったな。母ちゃんが帰ってくる前にやっておくか。
もそもそと身体を起こしてベッドから降り、部屋を出ようとしたところで、何気なく窓の外に目をやった。おれの部屋には腰窓がひとつだけあり、その外には隣家の蛍の部屋のベランダがある。おれの部屋の方にはベランダも屋根のような足場もないのでここから直接蛍の部屋と行き来することはできないのだが、お互いの部屋から窓を開ければ会話くらいならできる。
この部屋は普段カーテンを閉め切っているのだが、今日はわずかに開いている隙間から窓の外が見えた。
「……」
蛍の部屋はこっちと違ってカーテンを開けているように見えるが、レースのカーテンに覆われていて部屋の中までは見えない。今頃、あの部屋で仕事をしているんだろうか。母ちゃんには蛍の仕事を邪魔するなと言われているけど、要は蛍の集中が途切れないよう配慮すればいいのだ。
ベッドの枕元で充電中のスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。蛍とのメッセージ画面でゆっくりと文字を打つ。
『いま仕事中か?』
それだけ送って、ひとつ深呼吸した。
仕事中で忙しくて手が回らないなら後で返信すればいいし、メッセージが来たことにすら気付かなかったとしても後で気が付いた時に折り返し反応があるだろう。どちらにせよ、返事はすぐには来ないはずだ。その間におれはおれの仕事を、風呂掃除を終わらせてこよう。
スマートフォンをぽいとベッドの上へ放った次の瞬間、スマートフォンが短く振動してまた静かになった。あわててもう一度メッセージ画面を開いて確認すると、蛍から返事が来ている。
『休憩中。なんか用?』
カーテンの隙間でふと何かが動いたように見えて、顔を上げた。窓の向こう、蛍の部屋の掃き出し窓が開いて、ベランダに蛍が出てきたのだ。窓に歩み寄ってカーテンを全て引くと、手にスマートフォンを持ったままこっちを見ている蛍と目が合った。
「あ……」
窓を開けようとした時、蛍はスマートフォンに視線を落とした。何か打ち込んでいる。しばらくして、また蛍からメッセージが来た。
『暇そうだね』
顔を上げると、蛍はいたずらっぽい笑顔をおれに向けている。
どうやら怒ってるって感じではなさそうだな。
少しほっとして、おれも自分のスマートフォンに蛍へのメッセージを打ち込んだ。
『ごめん』
数秒も経たずに返事が飛んでくる。
『何が?』
『この前のこと』
『覚えてない』
そろそろと顔を上げる。蛍は部屋の中に戻ろうとしていたが、目が合うと指でちょいちょいと手招きするような仕草をして見せた。
「……」
今度は口パクで何か言っている。
『お、い、で』
そう言っているように見えた。
*
おいでと言われても、ここから蛍の部屋へ直接行くことはできない。おれはまず一階へ下りて外に出ると、庭とカーポートを越えて隣家の勝手口がある裏の方へ回った。この勝手口は隣家の台所に通じていて、昔から日中は大抵鍵がかかっておらず常に開けっ放しだった。さすがに夜間と家に誰もいない時だけは施錠しているようだったが、きっと今なら開いているだろう。
(うわ、本当に開いてるし)
勝手に侵入しておいてなんだが、この不用心さには他人事ながら不安になってしまう。
扉を閉めて台所を見回してみる。おれが子供の頃にこの家へ足繁く遊びに来ていた時と比べて、何だか雑然としているような気がする。食器は洗ってあるようだが、調理台の上に空のペットボトルや惣菜のトレーが放置してあるし、隅の床には米びつらしき容器がそのまま置いてある。
蛍が帰ってくるまでは蛍のお父さんがずっと一人で暮らしていたのだろうから、無理もないのかもしれない。この様子だと蛍もまともに自炊してはいないようだな。
他人の家の匂いがおれは苦手なのだが、この家の匂いだけは不思議と不快だと感じない。幼い頃から慣れ親しんできた家だからというのもあるだろうが、よその家に入った瞬間のあのむっとする感覚を何故か蛍の家で感じたことは一度もないのだ。
とは言え、もうおれ達は子供ではない。幼なじみだからと家の中をキョロキョロ見回すのは失礼だろう。なるべく細かいところをまじまじと見ないように意識しながら、二階にある蛍の部屋へそろそろと向かった。
(この階段、こんなに狭くて急だったっけ……)
子供の頃は手すりにぶら下がるようにしながら階段を上っていたのに、今のおれにはもう手すりの位置が低すぎてそれを掴んでいるとかえって上りにくいため、壁に手をついてゆっくりと上っていく。
階段だけではない、廊下も、蛍の部屋のドアも、あの頃はとても広く大きく見えていたはずなのに、ここはこんなにこじんまりとした造りの家だったのか。
自分の家には毎年帰省していたからこんなふうに子供の頃と大人になった今との感覚のギャップに驚くようなことはあまりなかったが、蛍の家に入るのは小学生の頃以来なのだ、小さく見えてしまうのも仕方のないことだろう。
だけど、子供の頃の自分にはとても大きく見えていたものが、大人になった今改めて見てみると実はとても小さかった、そういうことに気が付いてしまう瞬間はいつも何とも侘しく、物悲しい気持ちにさせられる。世界の何もかもが広く大きく見えていたあの頃にはもう二度と戻れないと知っているから、そんなふうに感じるのだろうか。
階段を上って左手に向かうと、突き当たりに蛍の部屋がある。その部屋のドアは閉まっていた。
なんだ、あいつ家に誰もいなくてもドア閉めてるのか?
実家でも常に自室のドアを開けっ放しで生活しているおれにはおよそ理解できないが、蛍は部屋で仕事をしているからドアが開いてると気が散るのかもしれない。
とりあえずノックしようと手を上げかけた時、部屋の中から話し声が聞こえてきて、おれはぴたりと手を止めた。
(……誰かいるのか?)
ドアに顔を寄せて耳を澄ませてみる。蛍の声は確かに聞こえてくるのだが、話している相手の声が聞こえない。
あ、もしかして電話中なのかな。
指の関節で控えめにコンコンとドアを小さく叩いてみると、すぐにスマートフォンが短く振動した。蛍からのメッセージだ。
『入っていいよ』
どうしたものかとしばし悩んだが、蛍が入れと言ってることだし……いいか。
ドアノブに手をかけて、恐る恐るドアを押してみる。ドアの隙間から部屋の中を覗くと、机の前に蛍が座っているのが見えた。机の上にはスタンドに置かれたノートパソコンがあり、そのディスプレイにはスーツを着て眼鏡をかけた中年男性の顔から胸のあたりまでが映し出されている。よく見ると蛍の耳にはワイヤレスイヤホンが挿してあり、その男性が画面の中で口を動かすのに合わせて頷いたり、時には何かを答えたりしている。どうやら、リモートで通話中のようだ。
蛍はこっちにちらりと視線をやると、パソコンのカメラからは死角になっている机の下あたりでスマートフォンをおれの方に向けた。そこにはおれとのメッセージ画面が表示されており、まだおれに送信されていない蛍のメッセージがひとつあるのが見える。
『ちょっと待ってて』
おれは小さく頷くと、そっとドアを開けて部屋の中に忍び足で踏み込んだ。
「……はい。そうですね、仕様書は修正済みのものを昨日送って頂いてるので」
蛍のパソコンのカメラに映り込まないよう、部屋の壁に沿って奥へと移動する。蛍の部屋も子供の頃とほぼ変わっていないはずなのに、今のおれにはとても小さく感じた。どこで待っていればいいのか分からず、仕方なくベッドの端に遠慮がちに腰掛けてみた時、どうやら蛍と眼鏡の男性との会話がそろそろ終わりそうな気配を感じ取った。
「はい、……はい。分かりました。はい、それじゃまた、よろしくお願いします。はい、はい。失礼します」
画面から男性の姿が消え、蛍は耳からイヤホンを外しながら回転椅子に座ったままくるりとこっちに振り向いた。
「ごめん、もう終わったから喋っていいよ」
ついほっとため息が出てしまう。
「悪い、邪魔するつもりは」
「いいって、別に大したこと話してないから。この人、いつもどうでもいいことでいちいちカメラONにして繋いでくるから苦手なんだよね」
そう言いながら、蛍は手にしていたスマートフォンを机に置くと、パソコンをスリープ状態にした。
「いいのか? 仕事してたんじゃ……」
「さっき休憩中だって言ったじゃん」
本当にいいのだろうか。
おれも前に勤務していた会社では何度か在宅勤務中にオンラインで会議をやったことはあるけど、基本的には毎日決まった時間を拘束されている働き方だったから、蛍のように完全に自分の裁量で仕事時間も休憩時間も決められるような勤務形態に実はひそかに憧れを抱いていたりする。だがそれと同時に、おれにはできないだろうとも思う。おれの場合、会社と家の区別を時間と場所できっちり切り分けておかないと、その境界がどんどん曖昧になってしまうからだ。初めて在宅勤務を経験した時、これはよっぽど自分を厳しく律することのできる人でないと無理だと思ったくらいだ。
(実は蛍って、すごい奴なんじゃ……?)
まじまじと蛍の顔を見てしまう。当然、蛍は怪訝な表情をした。
「ん? なに」
「いや……なんか、すっかり本物のプログラマーって感じで。びっくりして」
「どーも。一応これで食べさせてもらってるんでね」
蛍はまつ毛を伏せて小さく笑った。そんなふうに何でもないことのように謙遜する仕草が何だかあまり蛍らしくなくて、胸の奥がちくりと痛む。おれの知らない笑い方だ、と思った。
「蛍はすごいな。子供の頃からパソコン使うの得意だったし、今はそれを仕事にして稼いでるんだもんな」
「別にそんなすごいことでもないよ。僕からすると、燈夜みたいに毎日同じ時間にきちんと着替えて満員電車に揉まれて会社行って、いろんな人と直接会って話してる方がずっとすごいって。僕には絶対できない」
そういうものなんだろうか。
おれが蛍のような働き方はできないと感じるのと同じように、蛍はおれみたいな旧態依然とした働き方こそ無理だと思うのかもしれない。
「まあ、今はもう無職だけど……」
「五年近く続いたんだろ。それだけでも十分すごいことだよ」
「そうかな」
蛍はふと、思い出したように椅子の背もたれから身体を起こした。
「そう言えば燈夜って、なんで仕事辞めちゃったの?」
「そんな大した理由はないけど……」
「ああ、言いたくないならいいよ」
その言い方に何となく挑発的なものを感じて、つい膝の上で親指をぎゅっと握りしめてしまう。
(……まあ、いいか)
ひとつ小さくため息をついて、床に視線を落とした。
「おれがいた事業所、かなり前から業績が悪くて閉めたんだよ。それまで扱ってた製品の展開も今後は徐々に規模縮小することになって、そこにいた社員はみんな全国の他の事業所へバラバラに異動することになってはいたけど、異動先でやらされるのはどうせ今までとは畑違いの仕事だ。全然知らない土地でまた一から仕事覚えるほどあの会社に思い入れはなかったし、それに……」
「それに?」
「……なんか、疲れたから。それが辞めたいちばんの理由」
いざこうして言葉にしてみると、本当に大したことのない理由だと自分でも思う。おれと似たような理由で事業所の閉鎖を機に退職した奴は結構いたから、今までおれは自分があの会社を辞めた理由をそこまで恥じたり後ろめたく思ったりはしていなかったのだが、改めて誰かにその理由を話してみて今更だがあまりにも無計画だったかもしれないと少しだけ後悔した。次の仕事のアテなど何もないのに。
「人生の夏休みってやつだね、今の燈夜は」
黙り込んだおれをよそに、蛍は何故か嬉しそうだ。その能天気な発言にあきれたものの、不思議と不愉快な気分にはならなかった。
「大学生に使う言い回しだろ、それは」
「歳なんか関係ないよ。いいんじゃない? 定年まで一回も休みなくずーっと働き続けるとか、そっちの方がよっぽどクレイジーだし。休憩大事」
「休憩ったって、あんまりのんびりしてもいられないけどな」
「燈夜は頭が固すぎるんだよ。世の中いろんな生き方があるのに、そうやって仕事することばっかり考えてたらもったいないよ」
「簡単に言うな」
突然蛍は椅子から立ち上がり、おれのすぐ横にどさっと腰を下ろした。
「あーのさあ。前から思ってたけど、燈夜はせっかく自由の身になれたんだから、もっと楽しまないと。なんか燈夜ってこっちに帰ってきてからずっと家に篭りっぱなしで、あんまり遊んだりとかしてないだろ? それだとどんどん世界が狭くなっちゃうよ。また働くにしてもさ、これからの時代に求められる人材になるには、もっと広い視野とか柔軟な考え方を身につけておくのが大事だと思わない?」
「だから簡単に言うなっての。おれはお前みたいにどこ行っても通用するようなスキルなんて何もないんだから、遊んでる暇があったら仕事探さないといけないんだよ」
「じゃあそうやって、ずーっと石頭のまんまで生きてくつもり?」
「石頭って……思慮深いと言え」
「それはちょっと違うと思うなあ」
反論しつつも、心では蛍の言うとおりだと思っていた。
今のままではいけないと思いながら、ここに帰ってきてから、いや、会社を辞めた時からずっと、おれの胸の内は虚無感で埋め尽くされている。このままでいいはずはないのに、じゃあどうしたらいいのか、この先どんな方向へ進むべきなのか、前途はあまりに茫洋としていて、ただ立ちすくんだままいたずらに時間だけが過ぎてしまっている。
一旦職探しのことを考えるのをやめて、そこからきっぱりと離れてしまった方がいいのかもしれない、とは思う。部屋に篭って毎日変わり映えのしない景色を眺めながら同じことばかりいつまでもずっと考え続けていても答えは出ず、ただ同じところをぐるぐる回り続けているようなものだ。だが気ばかりが焦り、どうしたらここを抜け出せるのか分からない。完全に負のスパイラルに陥っている。
「それでさ、僕から提案なんだけど。明日一緒に遊びに行かない?」
ぽかんと口を開けているおれを見て、蛍はにんまりと笑う。その口元に、あの小さなえくぼが現れた。
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