蛍火の虜

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第2話  母ちゃんの作るカレーの味は何年もずっと変わらない。実家のリビングも今年の正月に帰った時からほとんど何の変化もない。いつも通りの見慣れた夜を過ごすはずだったのだ。目の前でカレー食ってるこいつがいなければ。 「あー美味い、おばちゃんのカレー最高。お店開けるよ」 「ありがとうねえ。燈夜はそんなこと言ってくれないから、蛍くんが食べてくれると作り甲斐があるわ。また明日の朝も食べに来てね」 「行く行く、絶対来るよ。僕の分残しておいてね」 「大丈夫よ、そのために多めに作ってあるから」  二人の会話が気になってテレビから聞こえてくるはずのバラエティ番組の騒がしい音声が全く耳に入ってこない。自分の生まれ育った実家だというのに、何とも居心地の悪い夕食である。 「……」  大きめに切られたじゃがいもを口に運びながら、おれは二人に気付かれないよう視線だけをそっと蛍に向けた。  見れば見るほど、おれの知っている蛍とは全くの別人のようになってしまった。最後に蛍と顔を合わせたのはおれが中学を卒業した時だったから、あれから十一年会っていなかったことになる。だからと言って、この変わりようはないだろ。  蛍は隣の家に住んでいる幼なじみで、学年はおれのひとつ下だが早生まれのためおれとは数え年の差に二歳の開きがある。大人になるとひとつふたつ程度の年齢差ではあまり差異を感じなくなるが、まだ幼い子供の場合そうはいかないものである。ほんの一歳の差があるだけで体格も語彙も桁が違う。だからなのか、おれは昔から蛍を自分よりずっと小さな子供だと思っていた。実際に蛍はおれより背丈が低く体力もなくて鈍臭く、いつもおれの後ろを少し遅れてくっついてきてばかりいた。  時々疎ましく感じることもなかったわけではないが、頼られていると思えば悪い気はしなかった。蛍は人見知りが激しく保育園や小学校ではおれ以外に友達と呼べるような奴がいなかったのか、おれが近くにいないといつも一人で遊んでいた。おれはそんな蛍の姿を見つける度に『おれが一緒にいてやらなきゃ』と独りよがりな使命感を感じてしまい、蛍に何かと声を掛けてできる限りは行動を共にするよう気を配っていた。  おれには年の近い兄がいるが何故か蛍はおれにしか懐かず、蛍のお母さんから『燈夜くん、ずっと蛍と仲良くしてね』と言われたことがある。だがそう言われた時、おれは即座に首を縦に振ることができなかったのを今もよく覚えている。  嫌だったわけではない。それは本当だった。だけど、おれは一点の曇りもない気持ちで蛍と遊んでいるわけではないという自分の心に、もうずいぶん前から気が付いていたのだ。  蛍はおれより小さくて弱いしすぐ泣く。  だから、おれが守ってやらなきゃいけない。  蛍には友達がいない。  だから、おれが一緒に遊んでやらなきゃいけない。  蛍にはおれしかいないんだから。  心の奥底でそう思っていた自分自身を、おれは子供ながらに傲慢だと感じていた。そして、そんな気持ちで蛍と一緒にいることにも次第に息苦しさを感じるようになり、小学校の高学年になった頃から蛍と遊ぶ時間を意識して減らすようになり、少しずつ蛍と距離を置くようになっていたと思う。  そんな時に、あれは起こったのだ。 「って、燈夜! 聞いてる?」 「は、えっ?」  唐突に呼びかけられ、はっとして顔を上げた。もうとっくにカレーを食べ終えたらしい母ちゃんが、自分の食器を片付けながらこっちを見下ろしている。 「だから、燈夜の荷物。今朝まとめて届いたからあんたの部屋に置いてあるけど、さっさと片付けちゃってよ。段ボールって放置してると虫が棲みつくから」 「ああ、はいはい。分かってるよ……」  ふと見ると蛍の皿もとっくに空だ。あわてて自分の残りのカレーをかきこんでいると、不意に蛍と目が合ってしまう。すぐ逸らそうとしたのに、蛍は口元だけで薄く笑った。 「燈夜、さっきから全然喋んないね。せっかく久々に会えたのに」  母ちゃんは台所に入ってまな板や皿を水で流している。おれ達の会話が聞こえているのかいないのか、こっちを気にしているような様子は全く見られない。  おれは軽く咳払いして、空になった皿にスプーンを置いた。 「……別人みたいになってるから、びっくりしてんだよ」 「へえ?」  蛍はテーブルに肘をつくと、頬杖をついておれの顔を覗き込んできた。その目にはにやにやといやらしい笑いが浮かんでいる。 「なんだよ」 「僕はてっきり、僕のこと忘れちゃってんのかと思ってた」 「わ、忘れるわけないだろ。あんな……」  おれが言い終わるより前に、蛍は前触れなくすっと席を立った。食器を持って台所にいる母ちゃんのところへぺたぺたと歩いていく。 「おばちゃん、ごちそうさま。また明日も来るね」 「うん、待ってるからね」 「ありがと。それじゃ、おやすみなさーい」 「はいはい、おやすみ」  ぽかんとしているおれを放置して、そのまま玄関へと消えていく。おれの前を通り過ぎる瞬間、蛍はちらりとおれを見たが、その目はもう笑っていなかった。  玄関扉を閉める音が聞こえた途端、全身からどっと力が抜けていく。自分の身体がずっと固く強張っていたことにその時初めて気付いた。 「……はあ」  何なんだ、あれは。  泣き虫で臆病でいつもおどおどしてて、おれの後ろを少し遅れてとろとろくっついてきてたあの鈍臭い蛍が、あんなふてぶてしい田舎のヤンキーみたいな風貌の生き物に変わり果ててしまっていたとは。もしかして、会わなかった十一年の間に何かあったのだろうか。そう言えばそういう話は一切聞いていない。 「あの、母ちゃん」 「なに?」  台所に皿を持っていくついでに、恐る恐る聞いてみる。 「蛍って、その……なんかあったの?」 「なんかって何よ」 「母ちゃんは隣で毎日顔合わせるから気にならないかもしんないけどさ、子供の頃と今じゃあいつ雰囲気がえらく違うだろ」 「あんただって子供の頃と今じゃ全然違うわよ。逆に子供の頃のままの方が変でしょ」 「いや、そういうことじゃなくて……」  分かっているのかいないのか。  おれが口をつぐむと、母ちゃんは洗い物を続けながら小さくため息をついた。 「まあ、燈夜には何も話してなかったしね」 「え……」 「燈夜は蛍くんのことあんまり聞きたくないかと思ってたから、今まで教えなかったんだけど。もう子供の頃の話だもんね」  そこでおれは、蛍と会わなかったこの十一年の間にあったことを初めて聞かされた。  蛍が二十一の時、蛍の両親が離婚して蛍のお母さんが家を出て行ったこと。  それより前に蛍は大学進学を機に家を出ており、現在は都内で一人暮らしをしているが、先月に蛍のお父さんが階段で転んで骨折してしまい隣町の病院で入院中のため、その間だけ一時的に実家へ帰ってきていること。 「骨折で入院って、そんなすぐ帰って来られるもんじゃないだろ。蛍だって仕事があるだろうに、ずっと実家にいて大丈夫なの?」 「なんかね、蛍くんって在宅でできるお仕事してるからネット使える環境なら場所はどこでもいいみたいよ。プログラマー? とかって言ってたかな」 「ふーん……」  意外だった。  でも言われてみれば確かに、あの金色の頭と部屋着みたいなだらしない格好の説明がつくかもしれない。あんなナリでもちゃんと仕事をして収入を得ているのか。 (となると無職のおれは、分が悪いな……)  でも、早々に蛍の現況を聞けて良かったのかもしれない。蛍の口から直接聞き出す度胸はないし、事情を何も知らずに蛍と話していたら気付かないうちにうっかり失言していたかもしれないのだ。 「蛍くんのこと気になると思うけど、お仕事中は邪魔しないのよ」 「分かってるよ。蛍だって……おれなんかと、話したくもないだろうし」  母ちゃんはまたため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。  しかし、蛍の両親が離婚していただなんて。  おれはずっと自分のしたことで頭がいっぱいで、この十一年間に変化したであろう蛍の身の上については考えたこともなかった。でもそれが普通なのだろう。十一年もあればその間にお互い思いもよらないような出来事があったとしても、何も不思議なことではないのだ。  蛍はどう思っているんだろう。  この十一年に起こったであろうたくさんのことに紛れて、子供の時おれのしたことなどもうまともに覚えていないのだろうか。 『僕はてっきり、僕のこと忘れちゃってんのかと思ってた』  ……そんなわけ、ないか。  いくら何でも、そんな都合のいい話あるはずがない。  あれも今くらいの夏だった。  日が沈んでもなお蒸し暑い夜、おれと蛍はそれぞれの親に買ってもらった花火セットを持ち寄り、おれの家の庭で花火をすることになった。あの時おれは小五だったから、蛍は九歳だったか。夏休みも後半に差し掛かる時期だというのにあいつは相変わらず生っ白く、腕も脚も細くて、連日のプール通いで日焼けしたおれとはまるで別の生き物のように見えた。  あの頃にはもうおれは蛍と遊ぶことを義務のように感じていて、花火で遊ぶのを母ちゃんから提案された時も正直言って億劫だったが、それを口に出すことはできるはずもなかった。蛍は楽しそうだったけど、あいつのそんな顔を見るだけで心の中ではうんざりしていた。本当はあの夜、夕食が終わったらクラスの友達何人かとオンラインゲームで遊ぶ約束をしていたのに、蛍と花火をするためにおれだけ抜けることになってしまったのだ。  なんでおればっかり。  蛍のせいで。  あの時のおれは、よっぽどつまらなそうな顔をしていたのだろう。蛍は最初こそ花火を楽しんでいるようだったけどおれに話しかけてこようとはせず、二人ともただ黙って自分の持つ花火を眺めているだけだった。  蛍が次の花火に火をつけようとしたちょうどその時、不意に吹きつけてきた強い風で花火用のバケツに入ったキャンドルの火が消えてしまい、蛍はまだ色鮮やかな火を噴いているおれの手持ち花火から火を分けてもらおうと近寄ってきた。 『燈夜、火ちょうだい』  まだ風が吹いているのに、おれは手持ち花火を軽く振り下ろすように蛍に向けた。  何がそんなに気に障ったのか、今となってはよく思い出せない。きっとあの時の、おれを気遣うような蛍の不安そうな目に苛立ったのだろうと思う。  鮮やかな色の火の粉が風に煽られ、生き物のように宙を舞った。まずい、と思ったその瞬間、その生き物のひとつが蛍の穿いているハーフパンツの裾に飛び降りたのだ。 『あっ……燈夜! あつい、あついよ!』  目の前で燃え広がる火は、おれの知っているどんな火とも違う色をしているように見えた。だからそれが現実だと認識することができず、おれはただ茫然とその様を見ていた。  蛍の悲鳴に家から飛び出してきた親父と母ちゃんが玄関脇に置いてあったバケツの水ですぐさま消火し、続いて隣家から駆けつけた蛍の両親は、ずぶ濡れになって泣き喚く蛍を見ると血相を変えて彼に駆け寄っていた。  その後、おれは親父に思いっきり横っ面を殴られた。親父に殴られたのは後にも先にもその一度きりだ。  痕が残るかもしれない。  そう聞かされたのは、三日後のことだった。  あの後蛍はすぐ両親に抱えられて家に戻ってしまったし、それからおれは蛍に会っていなかったから、蛍がどれほどの火傷を負ったのか実を言うと今日まで一度もこの目で見たことがない。次に蛍の姿を見た時、蛍はそれまで見たことのない丈の長いズボンを穿いていて、その後ずっと脚が出るような丈の短いボトムスを穿くことがなくなったので、外から火傷の痕を確認することはできなかった。 『蛍……大丈夫なのか? 火傷は……』 『うん、全然平気』  謝って済むことではないのは分かっていたが、おれはこの件について蛍に謝った覚えがない。もしかしたらただ覚えていないだけで実際は謝罪の言葉を伝えたことがあるのかもしれないが、そんな大事なことをそうそう簡単に忘れるものではないだろう。  なのに蛍のおれに対する態度は以前と変わらず、どんな顔で蛍と向き合えばいいのか分からないまま、おれと蛍は表面上では何事もなかったかのように今までと変わりなく時々遊ぶようになった。  夏休みが終わって新学期が始まり、ひと月ほど経った頃だろうか。いつものように蛍の家で二人でゲームをしていると、蛍の叔母さんが訪ねてきた。おれはあの人とは片手で数えるくらいしか会ったことがなく、ほぼ知らない人も同然だったので、挨拶もそこそこにまた蛍との遊びを続行した。  しばらくしてトイレを借りようと階段を降りている途中、階下の廊下から蛍のお母さんとさっきの叔母さんがひそひそと何か話している声が聞こえてきて、おれはぴたと足を止めた。 『お姉ちゃん、あの子なんでしょ? 花火振り回して、蛍ちゃんに大火傷させたのって』 『振り回してなんかいないって、大げさよ。ちょっと火の粉が服にかかっただけで……』 『信じらんない。あたしなら絶対、二度と蛍ちゃんと遊ばせないわよ』  頭を後ろから思いっきり殴られたようだった。めまいがして、階段が、床が、立っているのにすぐ目の前に迫ってくるような、ひどく気持ちの悪い感覚に襲われ、おれはふらつく足で逃げるように階段を駆け上がって蛍の部屋へ戻った。 『燈夜? どうしたの?』  こいつはどうして、前と何の変わりもなくおれと接しているんだ。それまでそのことについて深く考えてこなかった自分の浅はかさが、その時になって急に怖くなってきた。  あんなひどい目に遭わされたというのに、何故こいつはおれと今までと同じように遊んでいられるんだ。  そうだ。  おれは蛍に、火傷を負わせたのだ。  その痕は一生消えないかもしれない。死ぬまで残るかもしれない。  おれのせいで。  取り返しがつかない。  おれはそれっきり、蛍と遊ぶのをやめた。  学校の廊下や登下校途中の道で会っても目を合わせることすらできなくなった。  蛍もそんなおれの態度の変化に気付いたのか以前のように近寄ってこなくなり、そのうち言葉を交わすこともなくなった。  あの夜の出来事で関係に溝ができてしまったのはおれと蛍ばかりではない。それまで家族同然に付き合っていたおれの両親と蛍の両親は、外で顔を合わせてもどこかよそよそしくなり、お互いの家を行き来することもぱったりとなくなってしまった。険悪な雰囲気ではないが、ぎこちなく他人行儀な空気。あの夜に大人達の間でどんなやりとりがあったのか、おれは何も聞かされていないが何となくあの空気で察することはできた。  誰かから面と向かって非難されたことは一度もないにも関わらず、おれにとってあの数年間は針のむしろに座っているようだった。  その後おれは他県にある全寮制の男子高校に進学し、逃げるように地元を離れた。同じ中学にいた蛍とは卒業式の日に遠くからほんのひと時目が合っただけで、一言の挨拶もなく別れたきり、今日まで一度も会っていない。  進学後も毎年盆と正月には帰省していたが、蛍には何かと理由をつけて会わなかった。そんなおれを家族は咎めることもなく、蛍の話に触れることもなくそっとしておいてくれた。 (……こんなことになるなら、帰ってくるんじゃなかった)  仕事を辞めて社宅を出る時、本当は都内で部屋を借りて一人暮らしを続けたかった。もっと頑張って貯金しておけば、無職であっても数ヶ月くらいなら一人で暮らせないこともなかったのに。  蛍が隣にいると知っていたら帰って来なかった。もう蛍も働いているであろう年齢だから、もしかしたらとっくに実家を出ているかもしれない、というわずかな望みにかけて帰ってきたのに、まさか蛍も一時的にこの町へ帰っていただなんて。もし神様が本当にいるとしたら、これはおれへの罰なのかもしれない。  そもそも、誰かを傷つけた罪とは償えるものなのだろうか。もしおれがこの先どんな惨たらしい罰を受けたとしても、それで蛍の火傷の痕が消えることなどありはしないというのに。
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