蛍火の虜

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第3話  働かざる者食うべからず。それがこの家の、いや、この国の大原則である。つまり今のおれは、この国では社会的弱者の中でも最底辺に位置する存在だ。 「くっそ、暑い……」  勤労が国民の三大義務のひとつだなんて、この国はいつまで時代錯誤な憲法を継続するつもりだ。  実家暮らし二日目にして、さっそくおれは母ちゃんから『働かざる者食うべからず』の原理を説かれた。無職であること自体は不問に付すが、その間ただ何もせず遊び呆けたり惰眠を貪るだけの怠惰な生活を送ることは許さない、人一人を家に置いているだけでもこちらは金も手間もかかるのだから、ギブアンドテイクの精神に則り、職探しの手が空いたら自分から進んで家の雑務を手伝うこと、とのことだ。  家の雑務とひと口に言っても、それは実に多種多様である。風呂掃除やゴミ出しくらいなら今まで一人暮らしをしてきたおれには造作もないことだが、初っ端から母ちゃんに命じられた雑務は庭の雑草取りだった。  真夏の日差しを受けて伸び放題になっている庭の雑草たちはしっかりと地に根を張っていて、軽く引っ張ったくらいではびくともしない。つばの大きな帽子を被り、手には軍手をはめて、庭の物置にあった草刈り用の鍬を借用して作業に取り掛かったものの、五分と経たないうちに体力のほとんどを消耗してしまった。 (……暑すぎる)  もうひと昔前の夏とは違い、命の危険を感じる暑さである。ただ立って息してるだけでも身体から汗と共に生気が流れ出ていくようだ。  帽子のつばの陰から見る日向の景色はあまりに眩し過ぎて、まともに見ていることもままならない。軍手の中はもうずいぶん前から汗でぐっしょりと濡れていて不快なことこの上ない。  ヤバい、めまいがしてきた。少し休憩しよう。それで、雑草取りは日没後にやるから昼間は勘弁してくれないかと母ちゃんに頼んでみよう。母ちゃんも鬼ではないのだから、いくら何でもそのくらいの要求なら受け入れてくれる、はずだ。 「とーおーや」  ついに幻聴まで聞こえてきた。朦朧とする意識の中、声のした上空を見上げると、太陽の光をまともに見てしまいそうになり、咄嗟にぎゅっと目を瞑る。帽子のつばを引っ張って陰を作り、そこから薄目を開けてゆっくりと上を見ると、隣家の二階のベランダに誰かが立ってこちらを見下ろしている。  汗が顎を伝って、ぽたりと左腕に落ちた。 「今日の最高気温三十七度だって。草むしりはやめといた方がいいんじゃない?」 「……おう」  汗だくのおれとは対照的に、ベランダの手すりに肘をついて笑っている蛍は涼しげだ。オーバーサイズのTシャツから伸びる細い腕は、子供の頃と変わらず雪のように白い。 「部屋ん中戻れよ、日焼けするぞ」 「燈夜の方がヤバいって。腕、真っ黒になっちゃうよ」 「休憩してくる。蛍も部屋入れ」 「そっち行っていい?」 「え……」 「おばちゃん、今スーパー行ってていないんだろ」  いたずらっぽく笑う蛍の金色の髪がさらりと揺れて、遥か上空の太陽の光を透かしている。そのあまりの眩しさに、おれはまた目をぎゅっと瞑った。  この家の庭には、縁側のある家に憧れていた母ちゃんの希望で実にささやかなウッドデッキが設けられている。土地の狭さと家のサイズとの兼ね合いで本格的な縁側は断念せざるを得なかったが、一階リビングの掃き出し窓の外に細長いウッドデッキと簡易的な屋根を設置することで、ぱっと見は縁側っぽく見えないこともない佇まいにはなっている。  帽子と軍手を外してからそのウッドデッキの端に座ってぼうっとしていると、隣家と接している庭の横のカーポートから蛍が入ってきた。車は母ちゃんが買い物に出ているため使用中なので、今そこは誰でも自由に出入りし放題の状態である。 「ほら、あげる」  言いながら蛍はおれの前に歩み寄り、手にしていた二本のペットボトルのうち一本をおれに差し出してきた。よく冷えたサイダーだ。 「……ありがと」 「燈夜、炭酸好きだったよね」 「よく覚えてんな」  蛍は何も言わず、おれの隣に腰掛けた。ちらりと見ると、蛍が持っているのは冷たい緑茶のボトルだった。  そういやこいつ、今は家に一人なんだっけ。飲み物とか食料とか、ちゃんと調達できているんだろうか。 「お前、一人でちゃんとメシ食ってるのか?」 「大丈夫だよ、暑いの嫌いだからネットスーパーとデリバリーで生きてる。それにほら、昨日みたいにおばちゃんがごはん食べにおいでって呼んでくれることも多いし」 「ふーん……」  おれは子供だった頃の蛍しか知らない。だから、こんなふうに淡々と一人で自活できる大人になった蛍を見ていても何だか他人のようにしか見えなくて、いまだにどう接したらいいのか分からないでいる。  本当にこいつ、蛍なんだろうか。 「……」  それを確認する方法ならもう分かっている。おれと蛍しか知らないような子供の頃にあった出来事や話したことを聞いて、それを知っているか反応を見ればいいのだ。しかし、おれにそんな度胸はなかった。いや、違う。おれはそこまで無神経ではない。  ペットボトルのキャップを外すとプシュッと小気味よい音が鳴った。一気に半分くらいの量のサイダーを喉に流し込む、弾ける炭酸の冷たい刺激が渇ききった喉に心地いい。 「ゲップ出るよ」  蛍に言われたそばから、おれは胃の中から込み上げてくる炭酸ガスを盛大に放出した。 「あーもー、少しは抑えろって」 「仕方ないだろ」  蛍はおかしそうに笑いながら緑茶を開けている。  肩に掛けたタオルで顔の汗を雑に拭いながら、庭の方に視線を泳がせた。 「……それ飲んだら、もう自分ちに帰れよ。いくら日陰でも暑いんだから」 「いいじゃん、少しくらい。ずっと部屋に篭ってるのも身体に悪いし」 「ああ、在宅でプログラマーの仕事してるんだってな。母ちゃんに聞いた」 「そんなに大したことはやってないけどね」  話せば話すほどおれの知っている蛍とはかけ離れていく気がする。  おれより背が低くて体力もなくて足遅くて鈍臭くて、極度の人見知りでおれ以外の奴相手にはろくに目を見て話せなかったあの蛍が、今は自分の得意なことで仕事を得て金を稼いでいる。器用に世の中を渡り歩いている。  離れていた十一年の間に、蛍はすっかり大人になってしまった。おれも蛍から見ればそうなのだろうが、それなら蛍は何故こんなにもあの頃と同じようにおれに話しかけられるんだろう。今のおれのように、気後れすることはないのだろうか。  草ぼうぼうの庭を眺めているふりをして、気付かれないよう横目で蛍を見た。  ペットボトルから緑茶を飲み下す度に、白い喉がこくこくと小さく上下に動く。ボトルの表面には結露で生じた水滴がいくつも張りついていて、まるで汗をかいているようだ。そのうちのひとつがつうっと滑り落ちて、蛍の穿いているカーゴパンツの膝にぽたりと落ちた。 「……」  やっぱりまだ、脚の出るようなズボンは穿かないんだな。成人男性なら年中脚を出さなくても別におかしなことではない、けど。 「燈夜さ、ずっと僕のこと避けてただろ」  あまりに唐突にそう言われ、その意味をすぐには理解できなかった。  顔ごと蛍の方を向いても蛍はおれを見ておらず、ウッドデッキの上でペットボトルの底のへりを転がすように弄んでいる。 「別に……」  どう答えたらいいのか分からず、そう返すほかなかった。 「メッセにも全然返事しないし」 「そんなことない、ちゃんと返信してただろ」  それは事実だった。この十一年、蛍とは一度も会わなかったがメッセージアプリでたまに他愛のないやりとりをすることはあって、蛍からのメッセージにおれはいつも返事を返していたはずだ。 「どうでもいい話には返事するけど、家のこととか昔の話になると無視するじゃん」 「……忙しかったんだよ。おれだってそんなに暇じゃないんだ」  あたりに響き渡る蝉の声にかき消されてしまいそうなほど、小さくか細い声でそう答える。蛍は後ろに両手をついて脚を投げ出し、サンダルを履いている足をぶらぶらと所在なさげに揺らした。 「まあ、いいけどね」  口ではそう言いながらも、蛍が全く納得していないのはそのムスッとした顔を見れば明らかだった。  なんだ、こういう顔もするのか。すっかり大人になってしまったとばかり思っていたのに。たったそれだけのことで内心ほっとしている自分に気付いて、誤魔化すように軽く咳払いをする。 「そういうお前だって、今までおれに何も教えなかっただろ。おあいこだ」 「何のこと?」 「蛍のおばさんが出て行ったなんて話、おれは昨日まで知らなかったんだからな」  ぶらぶらと揺れていた蛍の足がぴたりと止まった。後ろに手をついた姿勢のまま、蛍は顔だけをこっちに向ける。 「ああ、なんだ。もうとっくにおばちゃんが燈夜に話してると思ってた」 「蛍がメッセで教えてくれりゃ良かったんだよ。しょうもないことばっかり送ってきてないで」  蛍の金色の髪の毛先から鎖骨のあたりへ、汗がぽたりと落ちた。 「おばちゃん、気ぃ遣ってたんだろうね。燈夜に」 「……なんだよ」 「燈夜は僕のことなんて聞きたくもないだろうからって、そう思って黙ってたんじゃないの」  残っているサイダーを一気にぐいと流し込む。立ち上がると、横に置いてあった帽子を深く被った。 「暑いから、もう戻る。お前も帰れよ」  蛍は何も言わなかったが、立ち上がろうとしない。おれは蛍を放置して玄関の方へ歩き出した。  あの時もそうだった。  火傷を負ったのは蛍なのに、おれは加害者だというのに、大人達はおれに気を遣ってあのことには触れないでいてくれた。大人達だけじゃない、蛍も。  いっそのこと徹底的になじってくれていたら、おれもいくらか気が楽だったかもしれないのに。周りの優しさがかえっておれをいつまでも苦しめ続けている。  頼むから、早く解放してくれ。早く楽にしてくれ。それが叶うのなら、おれはどんな罰でも受け入れるから。今まで何度もそう思った。  罪を償うどころか蛍に謝罪の言葉ひとつ伝えていないにも関わらず、おれは自分が罪の意識から解放されることしか望んでいなかった。  おれのこんな浅ましい心の内を知ったら、蛍はどんな顔をするのだろう。
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