蛍火の虜

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第4話  実家へ戻ってきて数日経った。その間ずっと真意の読めない蛍の言動をいちいち過剰に気にしていたせいでおれは完全にあいつに振り回されてしまい、本来ならこっちへ帰ってきた時点でとっくに済ませているべき諸々の手続きがいまだ手つかずの状態であることにようやく気付いたのは、先月辞めた会社から退職に関わる書類一式の入った封筒が届いているのを見つけた時だった。  退職に際しての注意事項やら必要な手続きなど、辞める時に会社の人事からひと通り説明を受けたことはおぼろげに記憶しているものの、肝心の内容は既に何も覚えていない。 『まあ、分かんないことあったらググれば出てくるから大丈夫』  退職に関わる諸手続きについて説明してくれた人事の社員はそう言っていたから、真面目に聞かなくても何とかなるだろうと思っていた。 (真面目に聞いときゃ良かった……)  市庁舎の一階ロビーには簡素な長椅子がいくつも置かれていて、そこにまばらに座っている人たちはみんなどこか疲れた顔をしているように見える。おれもきっとあの人たちと同じような顔をしているのだろう。  一応事前にひと通り調べてから諸々の手続きに臨んだつもりだったが、思いのほか時間がかかってしまった。窓口が混んでいたのもあるが、おれが健康保険や年金の仕組みそのものをほとんど理解していないせいで手続きを担当してくれた職員と話が噛み合わず、その都度説明してもらっていたら、全ての手続きが完了する頃にはもう午後になっていた。朝の空いているうちにさっさと済ませてしまおうと開庁後すぐにここへ来たのに。  用が済んだらとっとと帰るつもりだったけど、どうせあの家に帰っても特にやることはない。きっと家で暇そうにしていたら母ちゃんからトイレ掃除と風呂掃除を命じられるだろうが、今日はもう体力も気力も使い果たしてしまった。できればやりたくない。  仕方ない。母ちゃんには申し訳ないが、どこかで時間を潰してから帰るか。  *  こういう何もない田舎で時間を潰せる場所と言ったら、郊外型の大型ショッピングセンター一択である。食料品はもちろん、生活に必要なものから娯楽に関わるものまで、日々の暮らしに必要なものはひと通り揃っている。  夏休み中ということもあり平日にしては人が多いが、それでも週末の混雑具合と比べたらまだマシだ。平日は働いていて土日が休みの人、小さな子供連れの家族、そんな客層でごった返す商業施設を一人で歩くのは無職の独身男にとってはもはや苦行でしかない。  おれと似たような身の上なのだろうか、さっきから明らかに用もなく一人でぶらついていると思しき人をちらほら見かける。あの人たちも失業中なのだろうか。いや、そうではなく、ただ単に平日休みの仕事をしているか、もしくはフルリモートの仕事をしているから時間を自分の裁量で自由に使えるのかもしれないな。蛍みたいに。 (そういや、蛍は今も仕事してんのかな)  蛍の仕事の邪魔はするなと母ちゃんから釘を刺されたのもあるが、おれの方から蛍を訪ねる気にはとてもなれず、この間おれの家の庭で話したのを最後に蛍とは顔を合わせていない。おれが帰ってくる前から蛍はおれの家で母ちゃんと夕飯を一緒に食べることがあったらしいけど、それも毎晩というわけではなく、あの三人でカレーを食べた夜以来ずっと蛍はうちに来ていない。  もしかして、おれに気を遣っているのかもしれない。  ……いや、ないか。ないな、絶対に。 『燈夜さ、ずっと僕のこと避けてただろ』  あんなことを面と向かって言えるくらいなのだから、おれに気を遣うなどという殊勝な心掛けができるはずがない。  本当にあいつは、昔と全然違う人間になってしまった。昔は今と違って臆病でおどおどしてて、おれに向かって自分の意見をはっきり言うこと自体ほとんどなかったのに。 「あれ? 燈夜じゃん、何してんの」  生活雑貨を扱う店が多く入っているフロアで見るとはなしに店先の品物を眺めていた時、不意に横から声をかけられた。声を聴いた瞬間には既に誰だか分かっていたから、おれは聞こえていないふりをしてそいつに背を向けようとしたのだが、こういう時に限って周りには他の客が一人もおらず明らかに不自然な感じになってしまった。 「いやいや、なにシカトしてんの」  それでも無理やりそこから逃げようとしたら、後ろからシャツの首をむんずと掴まれた。 「お……おう。蛍じゃん、奇遇だな」 「今、逃げようとしただろ」 「んなことないって」  諦めて蛍と向き合うと、蛍はおれの首根っこを掴んでいた手を離した。  今日も蛍はゴミ出しへ行く時のようなラフな格好をしている。前に暑いの嫌いだとか言ってたのに、わざわざ外へ買い物に来たのだろうか。 「燈夜がインテリア雑貨とか見てんの珍しいね。こういうの興味あったっけ」 「いや、別に……ただ眺めてただけ」 「そうなんだ。何か買いに来たんじゃないの?」 「暇潰してるだけだよ。今日は朝から役所行って仕事辞めた後の手続きをいろいろしてきたから、その帰り」  すると蛍は、何故かひどく驚いたような顔をした。 「なんだ、まだやってなかったの? 燈夜ってそういうこと結構ちゃっちゃと終わらせそうなタイプだと思ってたのに、意外とのんびりしてんだね」  だいぶマイルドな言い方ではあったが、要はやるべきことをさっさとやらない、だらしない奴だと思われているようだ。いや、事実ではあるが。 「や、やろうとは思ってたんだよ。でも引っ越しでバタバタしてたから、仕方なく先延ばしにしてただけで」 「そんな急に帰るって決まったわけでもないんでしょ? なのにバタバタ引っ越したって、計画性なさ過ぎ」 「うるせえな、引っ越しってのはどんなに前もって準備しててもバタバタするもんなんだよ」 「ふーん?」 「なんだよ」  まただ。蛍はにやにやと笑いながらおれを見ている。この笑い方をしている時、こいつは大抵ろくなことを考えていないのだ。 「燈夜、ホントは実家帰りたくなくてギリギリまでグズグズしてただけなんじゃないの?」 「……な、なんで」  ほらな、やっぱり。  あまりの居心地の悪さに堪えかねて、おれは目を泳がせた。 「僕と顔合わせんの、嫌で嫌でしょうがなかったんだろ」 「ちがっ……」 「残念だったね。タイミング悪く僕もこっちに帰ってきててさ、ご愁傷様」 「だから、そんなこと思ってないって」  ふと、視界の端に蛍が手にしている紙袋が入ってきた。その紙袋に印字されている店のロゴはついさっき見た覚えがある。このフロアの中にある日用品店のものだ。 「そ、そういうお前の方はこんな所で何やってんだよ? 今日の仕事はもう終わったのか?」  かなり強引ではあるが、今はこの話題からさっさと離れたい。そんなおれの思惑に気付いているのかいないのか、蛍は思い出したように自分が手にしている紙袋をちらと見た。 「ああ、今日はちょっとね。うちの父さんが入院してるのは知ってる?」 「母ちゃんに聞いた」 「入院っていろいろ揃えなきゃいけないものがあるんだよね。一応、入院する時に必要最低限のものは持たせたつもりだったんだけど、この前お見舞いに行ったらタオルがゴワゴワして顔拭く度に痛いだの、電動のシェーバーが欲しいだの、今まで相当我慢してたみたいでさ。それで今日、ちょっといいタオルとシェーバーを探しに来たの」 「へえ……そう、だったのか」  蛍のお父さんとはもう何年も顔を合わせていないが、おれの親父と違って口数が少なく、いつも穏やかに笑っている印象の人だった。あまり人に自分の意見をぶつけるようなタイプではないと勝手に思っていたのだが、蛍の前では違うのだろうか。  ああ、そうだ。だからおれは、驚いたんだ。蛍の両親が離婚していたことに。  蛍のお父さんもお母さんも、おれの記憶の中ではいつも優しい笑顔を絶やさない人たちだった。誰かを悪く言ったり人と争うようなことは全くなくて、きっと蛍の家族はいつまでもずっとこんなふうに穏やかに歳を重ねていくんだろうと、漠然と思っていたのに。 「……」  あの二人が別れてしまった理由は知る由もないが、もしそれが何かひとつの出来事が原因なのではなくて複数の要因が積もり積もった上でのことだったとしたら、おれが蛍にしたことはそのきっかけのひとつになり得るものだったかもしれない。  あの夜以来、おれの両親と蛍の両親はよそよそしくなってしまったが、それは蛍の両親が仲違いするきっかけにはならなかったとしても、少なからず影響を与える程度の要因にはならなかったのだろうか。  ……考え過ぎ、だろうか。 「そうだ、燈夜。暇なら僕の買い物に付き合ってよ」  蛍の弾んだ声に、沈みかけた意識が引っ張り上げられたような気がした。 「え……」 「燈夜もさ、引っ越してきたばっかりでいろいろ買いたいものとかあるでしょ?」 「ま、まあ……多少は」 「だったらちょうどいいじゃん。ほら、行こ」 「えっ、いや、待っ……おい!」  おれに考える時間を与えず、蛍はさっさと歩き出した。  *  蛍はお父さんの入院生活に必要なものを買いに来たと言っていたが、今日の目的はそれだけではなく、むしろそのついでに自分の欲しいものを物色することの方がメインだったようだ。  さっきから家具店のワークスペースコーナーで、展示されているワークチェアやデスクを熱心に見ている。 「椅子なんか見てどうするんだよ、買うのか」 「んー……いいのがあれば買っちゃおうかなと思ってたんだけど」 「家にある椅子じゃ不満なのか」 「実家にある机と椅子ってさ、小学校に入る時に買ってもらった学習机のまんまだから。別にそれでもいいんだけど、やっぱり仕事する時にこれはちょっとなーと思ってて」  蛍はそれまで背もたれや座面のクッションを触っていたワークチェアを元の場所に戻した。 「まあ、どうせ父さんが退院したらまた出て行くから、今は買わないけどね」 「え……」 「あれ、おばちゃんから聞いてない?」 「いや……聞いてる」  そうだった。蛍のお父さんが退院したら、蛍は一人で暮らしている部屋へ戻るんだ。十一年前はおれが蛍を置いて実家を出たけど、今度は蛍がおれを置いて出て行くのか。  蛍が遠く離れていくのはおれにとって都合のいい話のはずなのに、何故だかそれを心から喜べない。蛍に対する後ろめたさのせいだろうか。  ふと、蛍がおれの顔をすぐ近くで覗き込むようにじっと見ていることに気が付いて、おれはあわてて蛍から距離をとった。 「な、なんだよ」 「寂しい?」 「はあ? 何が」  蛍はまた、にんまりと笑っている。 「僕と会えなくなるの、寂しいんだろ」 「別に寂しくなんかねえよ。今までだってずっと会ってなかっただろうが」 「ふーん」  まだ何か言ってくることを想定していたのに、蛍は意外にもあっさりとおれから離れた。 「あ、そうだ。洗剤買わなきゃいけないんだった、次こっち」 「あ……」  またしても一人ですたすたと歩き出す蛍の後を、おれは急ぎ足で追いかけた。  何なんだ、あいつ。  ウザいくらい絡んできたかと思えば、次の瞬間にはもう別の方を向いてる。  子供の頃の蛍は大人しかったけど決して何を考えてるのか分からないというわけではなく、何て言うのか……もっと素直な感じの子だった。それが今は、あんなわけの分からない男になってしまった。もうあの頃の蛍はどこにもいないのだろうか。
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