蛍火の虜

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第5話  目的の日用品を全て買うと、ようやくおれ達は帰路へついた。ここから少し歩いたところにバス停があり、そこから出るバスで家の近くまで帰れる。  冷房の効いた店内からほぼ体温と同じくらいの気温になっている屋外へ出た瞬間、ほんの二、三分程度で着くはずのバス停までの距離が果てしなく遠く感じた。 「車があればよかったんだけどねー」 「え、蛍って免許持ってんのか?」 「持ってるけど、ペーパー。燈夜は?」 「おれも。社宅から会社まで電車通勤だったから」 「せっかく帰ってきたんだから、運転の練習すれば? そしたら僕、買い物行く時は燈夜に車出してもらえるし」 「あのな……」  おれの少し先を歩く蛍が歩道へ降りる外階段を下ろうとした時、一瞬だけど足がふらついたように見えた。考えるより先に、おれの右手は蛍の腕を横から支えるようにぎゅっと押さえていた。 「おっと」 「気を付けろよ」  蛍が体勢を立て直したのを確認してから手を離すと、おれは蛍の片手から洗剤や掃除用具などの日用品が詰まった買い物袋をひょいと取り上げた。 「あっ、ちょっと」 「両手塞がってると危ないだろ。ほら、そっちも」  蛍のもう片方の手にはまだ紙袋が二つ残っている。それも取り上げようとすると、蛍はぱっとおれから離れてそれを拒んだ。 「やだよ、僕の荷物なんだから。そっちも返してよ」 「お前さっきふらついてただろ。いいから、それも寄越せ」  どうせ口で言っても素直に渡さないだろうと思ったから、おれは強引に蛍から残りの荷物を取り上げた。 「……」 「ほら、さっさと行くぞ。暑いし」  買い物袋を肩に掛け、紙袋二つはもう片方の手に提げて、蛍を追い越して階段を下りていく。  この階段は屋根のような日除けとなるものが何もなく、直射日光が直に全身に当たる。ものの例えや誇張ではなく、本当に肌が焦げてしまいそうなほど熱い。下の歩道は脇に街路樹が植えられているから、そこの木陰に入ってしまえばここよりはマシだろう。 「蛍、早く……」  顔だけで後ろを振り向いた時、おれのすぐ横を蛍が階段を駆け下りて追い越して行った。 「あっ、おい」  そのまま歩道に降りると、街路樹の木陰にさっさと入ってしまう。あっけに取られてその後ろ姿を見送っていると、急に蛍はくるりとこっちを向いた。 「そういうの、やめろよ」  何のことやらさっぱり分からないが、おれを睨みつけている蛍の形相を見ればこいつが今もの凄く怒っていることはおれにも分かった。 「そういうのって……?」 「だから、そうやって荷物持ったり、支えたりすることだよ」 「なんで」 「そういうのは普通、女の子にしてやることだろ」 「そんなことないだろ、おれは困ってる人がいたら女だろうが男だろうが手を貸す」 「僕は何も困ってない」 「……? 何なんだよ。何がそんなに気に食わないんだ?」  いい加減暑さが限界なので、あまり気は進まなかったが階段を下りて蛍の前に立った。さっきまで強すぎる日差しのせいでよく見えていなかったが、木陰に入ってよく見ると蛍の頬がほのかに赤くなっていることに気付いた。暑さでのぼせているようだ。 「これじゃあまるで病人扱いだろ。そういうのをやめろって言ってんの」 「病人って……」  いくら何でも、話が飛躍しすぎだ。ちょっと手助けしたくらいでここまで怒るか? 「そんなにあの時のことが気になるの? もう僕たち子供じゃないのに、あんな昔のことをいつまで負い目に感じてるんだよ」  頭にかあっと血が上ったのが分かる。  さっきから道を通り過ぎる人たちが何事かとおれと蛍の様子をちらちら見ているのは気付いていたが、もうそんなことはどうでもよかった。 「き……気にするに決まってるだろ。歳は関係ない」  蛍はまだおれを睨みつけている。おれは構わず続けた。 「おれが蛍にしたことはこの先もずっとなかったことにはできないし、火傷の痕だってきっと一生消えない。子供のしたことだから、なんて、そんな簡単に済ませられる話じゃない」 「それが何なの? 僕が気にしてないんだから、燈夜もいい加減気にすんのやめろ」 「おれが気にするのはおれの勝手だ。蛍が気にしてなくても、それとこれとは関係ない」  蛍の首筋を汗が滑り落ちていき、その跡が鈍く銀色に光って見える。汗で濡れた金色の髪の毛先が肌に張りついているのを見ていると、暑さのせいだけではない別の何かがおれの意識をぼうっとさせていく。  不意に、その濡れた金色の髪がはらりと揺れた。 「……あきれた。この、石頭」  蛍の足元に、ぽたり、と雫が落ちて、アスファルトの道に小さなシミを作った。蛍の汗だ。 「僕は、昔のことに責任感じて、その罪滅ぼしみたいな気持ちで優しくされんのは嫌だ」 「そんなことは考えてない」 「考えてるよ。だって燈夜は、何とも思ってない人にこんな優しくできるほど気の利く奴じゃないだろ。子供の頃だって、気が利かないせいで女の子から全然モテなかったし」  なんで今そんな話になるんだ。 「う、うるさい。お前に何が分かるんだよ? おれだって、その……」 「なんだよ」  今ここで言うようなことではないのは明白だが、かと言ってここで黙るとおれの沽券に関わる。紙袋の取っ手を掴む手をぎゅっと握りしめると、汗がじんわりと滲んだ。 「……女子と付き合ったことくらい、ある」 「なに、急に」  思ったとおり、蛍は冷ややかな目でおれを見た。 「お前は、おれが恋愛経験ゼロの童貞だとでも思ってるんだろ」 「え、なに。違うの?」 「違うわ、アホ」 「……あっそ」  途端に蛍はそっけなく、ぷいと横を向いた。あからさまに興味のなさそうなその態度に若干心が折れかけたが、それを悟られまいとわざとらしく咳払いする。 「だ、だから別に、蛍にだけ特別な扱いをしてるわけじゃない。おれは誰に対してもこうだ」 「……ふーん」  もう完全に興味を失っていることを隠そうともせず、蛍は冷めた目で明後日の方を見ている。  何なんだ、一体。  元はと言えば蛍が昔のことを持ち出してまで病人扱いするなとか言い出してきたくせに、そうではない、おれは誰に対しても公平だと証明するために、話したくもない恋愛経験の有無についてまで教えてやったと言うのに、この態度は。  蛍の読めない言動にイライラが募り、さっきまで意識していなかった蝉の声がやけに気に障るようになってきた。 「そういうお前こそ、どうなんだよ?」 「何が?」 「経験数だよ。おれだけ情報開示させられるのはフェアじゃないだろ、教えろよ」  そう言いながらも、内心では聞くのが怖かった。蛍の今の見た目から察するに、おそらくおれよりも経験値が遥かに上であろうことは容易に想像できるからだ。見た目だけでは分からないだろうと思われるかもしれないが、こういうものは大抵の場合、見た目から推定したとおりの実情であることがとても多い。 「教えない」  どんな経験数が返ってきても動揺せずにいられるよう身構えていたのに、蛍の答えはあまりにそっけなかった。 「なんで」 「そういうことは誰にでも教えるものじゃないんだよ。特別な人にだけ、教えるものなの」  どう返したらいいのか分からずぼけっとしていると、蛍はやっとおれを見た。妙に真剣なその目は、いつものにやついた蛍とは別人の目のように見えた。 「燈夜は僕のことを特別だと思ってないんだろ? だから教えない」 「なんだよ、その理屈……」  その時、すぐ横の車道をバスが通り過ぎた。少し離れたところにあるバス停の前へ徐行しながら滑り込んでいくのを見て、蛍はまたおれから顔を背けてしまった。 「……バス来ちゃった。早く行こ」 「お、おう」  さっきのあれは、どう受け取ったらいいんだろう。答えないってことは、少なくとも経験はあるってことなんだろうか。そりゃそうか、蛍だってもう大人だし、この見た目なら蛍が何もしなくても向こうから誘ってくるだろうしな。  そういや、蛍の好みのタイプがどんな女の子なのか、おれは知らない。そういう話をする年頃になる前におれ達は疎遠になってしまったから。 (……くそ、めちゃくちゃ気になる)  隣の座席に座った蛍は涼しい顔で、車窓の外を流れる景色を見ている。バスが揺れる度に蛍の金色の髪も揺れて、その下にある白い首筋が露わになってはまた隠れてしまう。  蛍の髪は細くて柔らかく、ほんの少しの振動でもゆらゆらと揺れ動く。おれの太くて硬い髪質とは全く違っていて、子供の頃からおれはそれが不思議でたまらなかった。  おれと蛍は同じ男なのに、どうしてこんなにも違うのだろう、と。
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