蛍火の虜

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蛍火の虜

第1話  深い紺色の夜空に咲いた大輪の花から、幾筋もの細い金色の光が柳の枝のように流れ落ちている。枝垂れ柳の名の通り、その様はまるで大きな柳の木のようだった。  バスターミナルの端に立つ柱に掲示された地元の花火大会開催を告知するポスターには、過去に撮影された花火大会の写真を背景に開催日時と場所の簡単な地図も載っている。今年も例年通り、おれの実家から歩いて十五分程度のところにある河川敷で行われるようだ。  子供の頃は毎年のようにあの花火を見るため親や近所の友達と一緒に河川敷まで歩いたものだけど、あの夏を境にやめてしまった。だからもう十五、六年くらいになるだろうか。  バスの発車を知らせるアナウンスが流れて、はっと我に返る。乗降口のドアが閉まり、バスは緩やかに走り出した。バスターミナルを抜ける直前、あのポスターの前を通り過ぎる時、おれは目を逸らして手元のスマートフォンに視線を落とした。  実家に帰るのが久しぶりというわけではない、毎年盆と正月には帰省している。だけど今回はいつもの帰省とは違い、数日の滞在後また一人暮らしの自宅へ戻るということはなく、そのまま実家での生活が始まる。  地元の数少ない友達の中にはおれのように一度実家を出てよその土地で数年過ごした後、地元に帰ってきてそこで新たな仕事に就き、中には家庭をもった奴もいるらしい。『らしい』というのはおれが実際に本人達から聞いたわけではなく、母ちゃんが聞いてもいないのに事あるごとに周囲の噂話をメッセージアプリで送ってくるので嫌でも彼らの近況を知らされるからである。きっとおれのことも町中の知り合いに言いふらしているのだろうと思うと今から気が重い。  帰ってきた理由が転職とか実家の家業を継ぐとか結婚とか、そういう人に話せるものならいい。おれの場合そうではなく、仕事を辞めて今まで住んでいた社宅からも出て行かなくてはならなくなり、近場で部屋を探そうにも無職で貯金も心許ないとなると現実は想像していたよりもなかなか厳しく、仕方なく実家に身を寄せるより他にどうすることもできなかった、それが帰ってきた理由だ。こんなことがもう既にご近所一帯に知れ渡っているのかもしれないと思うと、ため息しか出てこない。 『さっき駅から出たよ。道そんなに混んでないから二十分くらいで着くと思う』 『分かりました。今夜はカレーです』  メッセージアプリで母ちゃんからの返事を確認すると、スマートフォンをリュックサックのサイドポケットにしまった。  帰ったら仕事を探さなければならない、それもあるが、おれのこの陰鬱な気分の原因はそれだけではない。  会いたくない奴がいる。  だからそいつが今どこでどんな生活をしているのか、鉢合わせしてしまうのを避けるためにも母ちゃんに探りを入れておきたいのだが、母ちゃんはずっとそいつの近況だけはおれに教えてくれない。知らないということはないはずだ。あえておれに黙っている、そんなことをする理由なんてひとつしかない。おれに気を遣っているんだろう。  *  家の最寄りのバス停に着いた時には、もうとっくに日が沈んであたりは薄暗くなっていた。昼間はまだ危険なくらいの酷暑が続いているが、夜になるとほんのわずかに暑さが和らぐのは、昨日までいた東京でもこんな寂れた町でも同じようだ。それでもやっぱり暑いことは暑い、家までの道を歩き出してすぐに汗がじんわりと滲んでくる。 「あっつ……」  つい無意識のうちに呟いた時、こめかみの脇から汗がつうと流れていった。ほんの少しの風でも吹いていればいくらかマシかもしれないのに、今夜は完全に無風、さながら凪の海面のようだ。バス停から実家までは徒歩五、六分程度だが、それだけの短い距離でも家に着く頃には汗だくになっているだろう。さっきから全く人とすれ違わないし、見た目を気にする必要もないかと、リュックからタオルを引っ張り出して無造作に肩に掛けた。  とうとう誰とも会うことなく実家の前にたどり着いた。ちょうど夕飯時だからだろうけど、一人か二人くらいはばったり鉢合わせてしまうかもと身構えていたから何だか拍子抜けだ。 (田舎でよかった……)  ほっと安堵しながら家の門扉を開ける時、何気なく隣の家をちらと見上げる。二階の窓は全て暗いが、一階のこっちに面した窓からは閉じたカーテン越しにぼんやりと明かりが漏れているのが分かる。なるべく大きな音を立てないよう静かに門扉を閉じると、帰省した時しか使わないこの家の鍵で玄関扉の鍵を開ける。  開けた途端、懐かしいカレーの匂いがした。この匂いは本当に何年経ってもずっと変わらない。実家を出た後、何度か自分でカレーを作ってみたけど何故かこの匂いと全く同じになったことは一度もなかった。材料もカレーのルーも母ちゃんが使うものと同じもので調理したにも関わらず、だ。  そんなことをぼんやりと考えていると、玄関を上がってすぐ横にあるリビングの奥から誰かがこっちに歩いてくる足音が聞こえてきた。いつもスリッパを履いている母ちゃんの足音ではなく、ぺたぺたと裸足で歩いているような音だ。家の中に知らない奴がいる、その事実を認識するより先に、そいつはおれの目の前に姿を現した。  若い男だった。  タンクトップに大きめのスウェットパンツ。足はやっぱり裸足だった。おれとほとんど同じくらいの背丈だけど、おれと比べて腕も足の指も細くて少し強く掴んだだけで簡単に折れてしまいそうだ。その白くて華奢な肩に毛先が少し触れるくらいの中途半端な長さの髪は、薄い金色に染められている。この田舎町ではまず見ることがないであろう色だ。少なくとも、この町にいるおれの知り合いにこんな色の頭をした奴はいなかったはず。 (……誰だ、こいつ)  そいつはソーダ色のアイスキャンディーを咥えている。他人の家だというのに、まるで自分の家にいるかのような部屋着の、完全にリラックスしきった佇まいで。よその家の人間なら普通はこういう時おれに対して挨拶や会釈をするものだろうが、さっきからそいつはアイスを咥えたまま何も言わない。ただそこに立ち尽くしたまま、じっとおれの顔を見ているだけ。その射抜くような視線に耐え切れず目を逸らしたのとほぼ同時に、そいつはぱっと振り返ってリビングの奥に向かって声を上げた。 「おばちゃーん、燈夜(とうや)来てるよー」  え。  逸らした視線をまたそいつに戻す。ぽかんとしてそいつを見ていると、奥から母ちゃんがぱたぱたと小走りに出てきた。 「あーらら、結構早く着いたね。カレーもうちょっとでできるから、手洗っておいで」 「いや、あの……母ちゃん、この人はどちら様で」 「え?」  母ちゃんはそいつと目を合わせた後、ぷっと吹き出した。 「『どちら様』? あんた、もしかして分かんないの?」  既にアイスを食べ終え、木の棒に残っている溶けかけのアイスを舌で舐め取っていたその男と目が合った。何度見たって知らない奴だ、そう答えようとした時、そいつはにんまりと笑った。 「(けい)だよ、隣の。久しぶり」  目を細めて妖しく笑うそいつの口元に、小さなえくぼが現れる。見覚えのあるそのくぼみに、あ、と思わず声を上げていた。
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