ハプニング

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 大浴場は内風呂が一つ、露天風呂は岩風呂が一つという、名前とは裏腹にこじんまりとしていた。洗い場は十人ほどが一斉に使えるようになっているが、実際にそれだけ人が入ればかなり窮屈だろう。  泉質は無色透明の塩化物炭酸水素塩温泉と書いてある。効能はリュウマチ、神経痛、婦人病とよく見かけるものだ。身体を洗っていると、一人入ってきた。先程ロビーで見かけた若い女の子だ。彼女の方から挨拶をされる。 「こんばんは〜」 「こんばんは〜っ」  意識して大きめの明るい声で返す。見知らぬ人と挨拶をするのは、気持ちが良い。旅の醍醐味だ。海外だと危ないこともあるが、国内ではまず心配はない。そういう意味では日本は本当に良い国だと思う。  アルミの戸を開けて外へ出る。露天風呂の庭は、雪のおばけが直ぐそこまで迫っていたが、おばけとおばけの隙間にライトが当たり、遠くが見渡せるようになっていて日本海が見えた。  雄大な自然に触れながら浸かる湯は、肌当たりが良く、僅か数分浸かっただけで肌がしっとりつるつるしてきた。効能に記載がなかっただけに美肌効果は嬉しい。健史にはせめて触れてくれた時に肌が綺麗と思われたい。和風なクリスマスであるものの温泉のセレクトは大正解だと仁美は満足していた。  ガチャッと音がする。戸が開いた。さきほどの女の子だ。会釈をする。彼女はドボンと岩風呂に入ると先客の私に気を遣ったのか、飛沫があがるのを気にかけるようにそろりそろりと前に進んだ。日本海が見えたのか「わぁ~」と感嘆の声をあげた。素直な子だ。お風呂に一人で来るということは連れは男性なのだろう。湯に浸かった彼女と目が合う。自然に言葉が出た。 「どちらからいらしたんですか?」  「東京です!」 「……えっ?そんな遠くからですか?」 「はい、北海道大好きで何度か来てるんですが、今回は海の幸を堪能したくてこちらのホテルを選びました」  ショートカットが似合う丸顔で、笑顔が可愛らしい。まだ、二十代半ばくらいだろうか。指輪はしていない。 「そうですか。私は地元北海道の人間なんですが、こちらはとても豪華と聞いて楽しみにしています」 「あの、ご主人と来られたんですか?さっきロビーで見かけたので」  「……ええと、私らは付き合っているだけで結婚してませんよ」    夫婦に見えたのか。  年齢的にそう見られて当然だ。もっとも、健史単独では余裕で二十代に見える。私と付き合っていると健史が所帯じみて見えてしまうのかと思うと、申し訳なくなった。彼女は一瞬意外な顔をしながらも、目尻を下げてこう言った。 「へぇ……。いいですね」 「そ、そうですかね。あの、お連れさんは?」 「いないんです。一人で来ました!」    ……!?  雪深い温泉にたった一人で……?  豪華な海の幸をたった一人で……?  彼氏がいなくても、友達や家族と楽しく過ごすことだって出来たはずだ。それか、旅なんてせずに趣味に没頭しても良いだろう。その方が気が紛れることもある。  クリスマスじゃなければまだ分かるけど、敢えてこの日を選んで、北国の中でも雪深い田舎の温泉へ来たのは、何かあって思いつめて来たように思えて仕方ない。良からぬことを考えたことがある私は、目の前にいる、偶々そこに居合わせた彼女のことで急に頭がいっぱいになった。  ──どうか、早まらないで欲しい。  湯に浸かっていない顔と肩に凍えるような冷たい日本海の風が吹きつける。雪がちらちらと舞い始めた。会釈をして露天風呂から上がろうとする彼女の背中に向かって咄嗟に言った。 「あ、あの……お食事の後で、お部屋にお邪 魔していいですか?」 「…………?」
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