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第一夜
北島美和が机にお茶を差し出した時、席に座っていた来客の男性と目が合った。
そこにいたのが思いもかけない人物だったので、そのまま動きをピタリと止めてしまった。
「勤務先、ここだったんだね」
相手は驚きながらも、すぐにニコニコと愛想よく笑顔を返してきた。
「あれ、酒井さん、北島と面識ありましたか?」
対応していた小原が北島美和と先方の男性とを見た。
「はい、以前の勤務先で仕事を一緒にさせていただいたことがありまして。
まさかこちらでお会いするとは思いませんでした」
「……その節はどうもありがとうございました」
美和は小さな声で言って頭を下げ、急いで部屋を後にする。
そのまま駆け込んだ給湯室で、流し台の水道の蛇口をひねって流水で両手を洗う。
驚きのあまり、自分が会議室でどんな反応をして、何を言って出てきたか、記憶していない。
酒井雅人。
美和が以前何年か交際していた男性だった。
「まさか会えるとは思わなかったな」
背後からの声に振り返ると、雅人が入口に立っていた。
「え、打ち合わせは?」
「美和と話したくて、ちょっとトイレ借りたいって出てきた」
「信じられない。早く戻ってよ」
美和の中の常識を越える彼の大胆な行動に、たびたび驚かされたことがあったことを思い出す。
「今日何時に終わるの? 久しぶりに食事どう?」
「行かない。私、今付き合ってる人がいるから」
美和はふいっと目を反らして水道の蛇口を締めながら、そっけなく、しかしきっぱり言った。
「えっ、そうなの」
雅人は意外そうな顔をした。
そのすぐ後に続けてまた言う。
「でもまだ結婚してないんなら、おれにもチャンスあるよね?」
以前なら軽く流せていた軽薄な口調に、今は苛立たしさしか感じなかった。
「そんなふうにまったく思ってないでしょ」
「選択肢としておれも残しておいてって言っただろ、美和」
「残すわけない。とっくに完全消去してるから」
強い口調で美和は断言した。
心で思ってもないことを平気で口にできる男。
一体なんのチャンスだというのだろう。
付き合う気も結婚する気もないのに簡単に出てくる言葉。
この半年、名前も存在もまったく忘れていたが、少しも変わっていない。
と美和は思った。
「美和さん、大丈夫?」
通りがかりにいつもと様子の違う美和の声を聞きつけ、急いで駆けつけたのは柴田祐太だった。
柴田は素早く雅人と美和の顔に視線を走らせた。
「……大丈夫。なんでもない」
美和は自分が思ったより大きな声に出してしまったことに気付き、声のトーンを落とした。
なんとなく気まずい。
一秒でも早く、何ごともなかったように終わらせたい。
そこにある違和感を柴田は敏感に感じとったが、雅人を見て、静かに言った。
「北島に何か御用ですか?」
「いえ、いただいたお茶が美味しかったのでお礼を言いに寄っただけです」
雅人は白々しくまったく違うことを言って、会議室の方へ戻っていった。
「美和さん、本当に大丈夫? なんかされたの?」
柴田は美和の肩に手を置いて、顔を覗き込む。
「ううん、何も。大丈夫。ありがとう」
美和は左右に首を振り、口角を上げて少し笑って見せた。
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