キメラ

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 あの日の俺は、小学生だった。  時期は夏休みで、生まれたばかりの弟の夜泣きに悩まされていた。  父は浮気相手の家へ、祖父母に愛されていた姉は、当然、祖父母の家に。余ったうえに、帰る場所のない僕は、母のいる自宅しか居場所がなく、余裕のない母は、息子に適当におこづかいを渡して弟にかかりきりだ。 『お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさい』 『お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい』 『お兄ちゃんなんだから、このくらいやりなさい』 『お兄ちゃんなんだから、頼らないで』 『お兄ちゃんなんだから、私を困らせないで』  恐らく、産後うつでホルモンバランスも狂ったのだろう。大人たちの話を聞く限り、姉を産んでから。そして現在にいたるまで、母は(こと)あるごとに俺を叱り、叩いて、怒鳴(どな)り散らし、ストレス発散のサンドバックにして「こんな人生イヤだ!」と、泣きわめいた。  しかし、そんなことは幼い俺にとって知ったことではない。  いつキレるか分からない母から、自分の身を守るには、自分のことは自分でやる。とてもシンプルだけど、子供には難易度が高いミッションであり、夏休みに突入すると一気に生活リズムが狂ってしまった。  原因は弟の夜泣きと、母が俺を放置していたことが原因で、もし、あの時、弟がすんなり寝てくれたら、母が俺を気にかけてくれたら……と、黄ばんだ景色を眺めながら、大人になった俺はため息をつく。 ◆  90年代――当時は格闘ゲーム【ストファイⅡ】が大人気で、近所のゲーセンにはストファイを求めて、子供はおろか大人たち(厳密には大学生のグループ)も、流行りの最先端に触れるべく、血も涙もないイス取りゲームに参加した。  得体のしれない店長が個人でやっている近所のゲーセン。従業員もほぼいないし掃除も行き届いていない、薄暗くてタバコの匂いが漂う店内。天井に取り付けられた扇風機が意味のない回転を繰り返し、ゲームの筐体(きょたい)がそれぞれのBGMを奏でていて、無秩序な音の(つら)なりが、ほこりっぽい空気を震わせながらプレーヤーたちを待っている。 ……みんな、いない。  時刻は午前の11時ぐらいだ。  ストファイの筐体は、金に物を言わせた大人たちに占拠されて、子供の姿は見当たらない。  いつもだったら、大人たちが席を占拠し始めた気配を察知して、子供たちは【なんとなく】という感じに、外で遊ぼうという流れになって、みんなで店を出て、公園なり広場なり河原なりと散っていくのだが、その日、寝坊したせいで俺は、いつもの【なんとなく】の流れから外れて、ただただ茫然(ぼうぜん)と、立ちすくむことしかできなくなった。  携帯もSNSもない時代だ。近所のゲーセンはある意味、子供たちにとっての待ち合わせ場所にもなっていたのだ。学年も学区(がっく)も関係なく、【なんとなく】そこに居ただけで連帯感が生まれる心地の良さ。クラスメイトと、うまく打ち解けられない俺にとっての、唯一の接点であり交流がぷつりと()たれてしまった。  どうしよう。  俺はなんとか、狭いゲーセンの店内から、自分と同じ仲間の姿を探そうとした。  もしかしたら俺と同様に、寝坊したクラスメイトの誰かが来てくれる可能性も考えて、店内を徘徊(はいかい)しながら待ってみたのだが、時間が経過するごとに、気分も足も重くなった。  お昼の時間が過ぎても、大人たちは入れ代わり立ち代わりストファイを占拠して、朝ごはんが遅かったせいで空腹(くうふく)に悩まされなかったものの、俺の脳内は次第に諦めと苛立ちが占めていく。  自分の居場所が見つけられない、なにも起きていないのに理不尽に追い詰められているような焦燥感。タバコと汗の匂いと、BGMに混じり始める大人たちの感情任せな怒声(どせい)。ざらりとする淀んだ空気が肌を舐めて、入り口から差し込む黄色い夏日が目に()みて、もう帰ろうかなと、投げやりな気分に心が塗り替わろうとした時、ふと、視界に丸みのあるフォルムが飛び込んできた。  UFOキャッチャーのぬいぐるみだった。
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