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これでラストか、と、俺はツバを飲み込んだ。
どんな状況だろうと、この頭の大きなぬいぐるみは良い狙い目に思えたし、わざわざ別のぬいぐるへ狙いを変えるなんて、時間と金のムダでしかない。
「よし、いけ!」
こんどはシンプルに頭に引っ掛ける。
確実に着実に、自分は、このぬいぐるみを手に入れるのだ。
最初と同じ、首に引っ掛けて吊り上げて――。
幼い俺の頭の中に立ち込める、黄ばんだ景色に黒い靄。
クレーンによって吊りあがったぬいぐるみは、頭の大きな不気味なぬいぐるみにひっつく形で、クマの他にも三つもついてきた。
にわかに信じられない。奇跡的な光景が目前で展開されているのに、俺の脳内に再生される、黒い靄と三つの光景。
後ろから車を追突されて、窓ガラスに咲く赤い花。
脱いだ靴の横にぬいぐるみを置いて、その場から飛び降る学生。
駅のホームで、娘に贈るぬいぐるみを眺めていたら、ふいにドンっと背中を押されて、迫る電車に――。
「うっうぅ」
俺は頭をおさえた。
強烈な頭痛に襲われながら、血走った眼でアームに引っ掛かった五つのぬいぐるみを凝視する。
それは果たして、ぬいぐるみだと形容していいのか分からない、ブドウの房のように連なった集合体。
接している布地の部分が溶け合って脈打ち、蠢き、一つの存在へとなろうとしている。
アト 一回
「こい、こい、こい」
指紋で汚れたガラスに映る幼い俺は、ぬいぐるみではなく、黄ばんで腐臭を放つ遠くを視ていた。
年老いた母の汗ばんだ身体をタオルで拭き、自力で寝返りをうてなくなった父は、長年付き合っていた浮気相手に捨てられて、息子の俺が世話をしなければ、全身が床ずれを起こして痛みに悶える。
毎日、毎日、終わらない介護をする。床ずれを起こさないようにストレッチを意識して、父と母の身体の体勢を何度も変えて、料理も入浴も、病院の送り迎えも、考え付く限りのことをやっているのに、かんじんの両親から、感謝に言葉をもらったことは一度もない。
リモートで仕事をして、ヘルパーさんにも定期的に助けてもらっているが、仕事よりも介護でのやることが、雪だるま式に増え続けていて、終わりの兆しがまったく見えない。
アト 一回
助けて。と、叫ぶ前に、多くの人間が俺に縋りつく。
母に、父に、姉に、弟に。
甥を私立に行かせたいから援助して欲しい。
この気持ちは子持ちじゃないと分からない。
彼女を妊娠させた、兄貴助けて。
堕胎させる金をくれ。
本当に使えないお兄ちゃんね。
この歳で独身とは情けない、早く嫁を貰ってこい。
まったく、オレがお前と同じ年齢ぐらいのときはな。
もっと丁寧に服を脱がせてよ、このグズ!
なんでこうなったんだ、なんでお前じゃなくて、オレなんだ。
ついに限界を超えて、大人の俺がゴルフクラブを振りまわしている。
父に、母に、姉に、弟に、不幸にも居合わせてしまった甥に。
過去、クレーンのアームに引っ掛かる、五つの異形のぬいぐるみ。
現在、もしくは未来、俺が手に掛けた五つの死体。
アト 一回
赤く、赤く、点滅する、クレーンゲームのデジタル表記。
取り出し口に近づくぬいぐるみと、点滅して0になろうとしている赤い数字。アームが花のように開いて、宙に放り出されるぬいぐるの集合体が、取り出し口の穴に吸い込まれようとした時と、完全に表記が0に切り替わろうとしたタイミングだった。
――バン!
大きな手がケースを叩き、ぬいぐるみたちが方々にバラバラと散っていく。
「え?」
俺は見えない爆弾が爆発したような衝撃に、びくりと肩を震わせた。
小さな体に覆いかぶさるような影が差し、正体を確かめようと恐る恐る後ろを振りかえれば、ガラスケースに手を押し付けたままの姿勢で、眼鏡をかけた男が笑ってない目で俺を見降ろしている。
このゲーセンの店長だった。
「あぁ、悪かったな坊主。怖がらせちまって」
ニヤリと笑う店長の眼鏡のレンズには、数字が表示されていない、デジタルの羅列がちらちらと赤く点滅していた。
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アト 回
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