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第3話
「ここ…」
長いことめそめそとしている僕を、青年は泣き止むまで、ずっと膝をついて抱きしめてくれていた。
ひとしきり泣いた僕と目が合うと、はにかむように笑った青年は、帰れそうですか、と尋ねた。しかし、先ほどの光景を思い出して、また涙が滲んできてしまい、俯きながら小さく首を横に振った。その僕に対して、幼い子に向けるような柔らかい声で、歩けますか?と彼は声をかけてくれた。肩を抱いて起してくれた彼に、そのまま甘えて寄り添ってもらいながら、彼の誘うがままに歩いた。
初対面で、そんな至近距離でいるようなこと、はじめてだった。
けれど、目の前の青年の垂れた眦も、すべてを透かすような光彩豊かな瞳も、柔らかく深く沁み渡るような声も、なにより、日向とそこに隠れる甘やかな香りが、僕の心から警戒というものを感じさせなかった。むしろ、ずっと隣にいたような、馴染みあるような、もしくは、ずっと探していたもののような、しっくりと合わさるものを感じられた。
そうして、連れて来れられた場所が、特別棟の裏に回って、竹林を抜けるとひっそりと現れた大きなドーム型のビニールハウスのような場所だった。
こぼれた言葉そのままに、隣にいる彼を見上げると、僕と瞳を交わらせて、にこり、と微笑んだ。
「僕の秘密基地です」
ドアノブを引くと、温かな空気と共に、緑と花の蜜の香りが鼻腔をくすぐる。一枚、ドアをくぐると、日常では見ることのできない背の高い、青く厚い葉が何枚も重なっている。その中に赤い花を立派に咲き誇らせて、魅惑的な蜜の香りをさせている。様々な植物が鉢に入り、所狭しと鬱蒼と並んでいるが、夕日の赤を受けて、きらめているようにも見えた。天井は高く、今にも様々な鳥の鳴き声が聞こえてきそうだった。
「すごい…」
天高く葉を伸ばす木々を見上げて、ぽつりと言葉が漏れた。振り返ると彼は僕の顔を見て、ほんのりと頬を染めて、優しい笑みを浮かべていた。
「気に入ってもらえて嬉しいです」
「ここ、君が…?」
血色の良い唇をゆったりと上げている優しい笑みをさらに深くして、嬉しそうにうなずいた。見上げる高い位置にある小さな顔は、柔らかさだけでなく、す、と整っていて、人好きされそうだ。柔らかそうな黒髪がドアの隙間から漏れる風にそよがれる。それに伴って、土のしっとりとした匂いと緑と花と、彼の匂いがする。熱を感じて、視線を降ろすと、ずっと手を握っていた。は、と気づいて、急いで手を引く。残された彼の手のひらは居心地悪そうに宙に保たれたまま、しばらくするとぶらりと降ろされた。先ほどまでつないでいた指先と手のひらが妙にざわついて、もう片方の手で握りしめた。とくとく、と心臓が落ち着かない。
ちらりと見ると、彼のジャージには学年カラーで「楠原」と刺繍されていた。
「くす、はらくん…?」
「ん、ああ…、これで、くすはるって読むんです」
珍しいでしょ、と彼は小さく笑った。僕と違って、大きな身体なのに、屈託なく笑うその顔は、少年そのもので、愛らしいと思ってしまった。
「くす、はるくん…」
「はい」
ただ返事をしてもらえただけなのに、居所が悪いようなさわさわした気持ちになって、でも嬉しくて、もう一度つぶやく。彼も目尻をさらに細めて返事をした。
「僕は、依織…名戸ヶ谷、依織…」
「名戸ヶ谷、先輩?」
小首をかしげて、彼は僕に聞いた。
そう、だけど。
僕はうなずいた後、首を横に振った。
「ん? 何か、違いましたか?」
彼は、優しい笑みのまま僕の言葉を待っていた。彼の温かく、じわりと身体に沈み込んでいくような声がもっと欲しいと思った。
「…い、おり」
下唇を噛んで、もごついた僕の声は聞きとりにくかったらしく、彼が少し身をかがめて耳を寄せてきた。ふわ、とくすぐったい香りがして、きゅう、と喉が絞られる。
「ぃ、おり…、いい…」
彼が姿勢を直さないので、また上手に言えなかったのだとわかる。こく、と一息飲んで、彼のジャージの裾を握りしめて唇を動かす。
「依織がいい…っ」
言えた、と思ったのは、彼が顔を上げて、ぱちっと視線が交わったからだ。
こんな風に、名前で呼んでほしいと強請ったことなんて一度もなかった。
けれど、彼の柔らかな声で、自分の、自分だけの名前を呼んでほしくなったのだ。
「依織、先輩?」
まばたきを何度かした彼は、薄い唇で僕の名前を呼んだ。
夕日が角度を変えて、隙間から差し込み、彼の瞳に反射した。そのきらめく宝石に射抜かれると、どくん、と大きく心臓が鳴って、視界が涙で滲んだ。
「依織先輩」
彼がもう一度、大切そうに僕に名前をつぶやいてくれて、うなじから熱が溢れて、指先が震えた。大きくうなずくと、彼も顔を崩す。
「そんなに喜んでもらえると、僕も嬉しいです」
えへへ、と彼が笑う。そんなにあからさまだったのだろうか、と顔に熱くなり、手の甲で頬をこすって、視線をさまよわせる。だから、彼が僕のことを愛おしそうに見つめていたことなんて気づけなかった。
「出会った記念に、ひとつプレゼントがあります」
する、と指先を救われて、彼の硬い指の腹が手のひらをなぞった。それだけなのに、背筋がびり、と電流が走ったように反応した。涙の膜が張った瞳で見上げると、彼は眦を染めて柔らかい笑みを見せていた。その指先に誘われるがままに足を進める。大きな葉っぱをかき分け、開けた先には、小さな農園ができていた。その脇にある棚床には、白い小さな花と共に赤い果実が成っていた。
「これ…」
「はい、どうぞ」
小さな実りを指先で器用にちぎり取り、僕の唇に当てた。素直にかじると、じゅわ、と果汁が溢れて急いで吸い付いて、もう一口進める。彼が器用にへたを摘まんで取り去ってくれた。酸味が少なく、甘みが強く、それでいて香り豊かで味の濃い苺に思わず眉があがる。僕の表情を見ると、彼は蕩けるように笑んだ。
「遅咲きの品種ですが、愛情込めて育てたので、おいしいでしょ?」
ただ感情のままに、何度も大きくうなずく。ごちそうしてもらったのは僕なのに、僕以上に彼は朗らかに笑っていて、全身に温かいものが流れ、溢れてしまいそうになる。
「あと数日すればもう少し獲れるようになります」
棚床をあれこれ説明しだす彼の横顔を僕は見つめてしまう。高い鼻梁がきれいで、大きい口はゆるやかに細く上がっていて、花があるのにどこか質素な印象を受ける。だからこそ、僕は、彼のことを知りたいと思ってしまうのだろうか。
こちらに振り返った彼は、単純に好きなことを語っていた瞳の輝きをもっていて、は、と僕も意識を戻す。
「依織先輩が良ければ、また来てください」
「また、来ても、いいの…?」
もちろんです、と純朴な彼の笑顔を見ていると、まぶしくて目を細めたくなってしまう。それと同時に、触れてはならない領域なようで目を背けないといけない気もしてしまう。
口の中で、苺の甘みが残っている。鼻から抜ける豊かな香りは、彼の持つ甘美なものに似ている気がした。
ごく、と唾を飲んでから、彼の指先を握りしめる。
「名前…、僕も、名前で呼びたい…」
息を詰まらせながら、強張った身体で訴えると、彼は少し目を見開いてから、ゆったりと教えてくれた。
「楠原 透です、依織先輩」
透。
震える唇でつぶやくと、はい、と穏やかな笑みを浮かべて頷いてくれた。
身体の熱が暴走するような恍惚なざわめきと、今まで誰にも見つからないように隠していた僕の真っ暗の固く閉ざされた部屋の扉を開く一筋の光が僕の体の中で渦巻いていた。
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