第41話

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第41話

 ベッドに腰掛けて、僕はようやく一息つけた。  今日は朝から彰が寮前まで迎えに来て、彰が呼んだ大田川の車で一時間かけて、僕の実家へと送り届けてくれた。その間、車では隣にずっと座って、手を握られたり、足を撫でられたりする。やめて、と言いたかったけれど、昨日のように、何をされるかわからなかったから、ただ黙って我慢するしかなかった。それを思い出すと、寒気が走る。  その後、僕の帰宅を喜ぶ両親が待っていてくれて、彰も交えて一緒に昼食をとった。その後、彰は大田川の家に帰っていったが、僕は両親や会社の重役たちへ帰宅の挨拶を改めてする。兄たちにも長い電話で挨拶をした。  夜は、その兄たちと両親と一緒に、行きつけのホテルのディナーへと行った。依織がいると酒が進むと飲み過ぎて酔っぱらった兄たちはなかなか僕を離してくれなくて、家に帰ってきて、風呂に入り、寝支度が済んだ今は、日付が変わっていた。  久方ぶりに横になったベッドは昔から馴染んだものだった。きちんと干してくれたようで、柔らかな香りと共に、日向の香りがする。 (透…)  今、嗅いでいる日向の匂いの奥には何もない。けれど、昨日、これでもかと味あわされた、とろりと溶け落ちる甘美な香りを思い出して、ぶるり、と身体が大きく震えた。布団の中で、ぎゅ、と自分を抱きしめる。腹の奥が煮え立つようで気になるのを、気づかないふりをして力を籠める。  ざわつく唇を淡く噛む。指先で、そ、と触れると、昨夜の逢瀬を振り返る。  普段、穏やかな透が、別人のように情熱的だった。  透が満足、はしていなかったが、唇を離してくれた頃には、じんじん、とずっと痺れるようになってしまった。それでも、透は何度も吸い付いて、夏休み中会えない寂しさを訴えた。 (透が、そんな風に甘えてくれるなんて…思いもよらなかった…)  性的なことには淡泊、というよりも、全くイメージが湧かなかった。好きだと言い合っても、僕たちがキスをすることだって、夢物語かのようにぼんやりとした想像しかなかった。  けれど、現実の透は違った。  疼く唇を、指先でつまむ。 (キスって、こんなに嬉しいんだ…)  じりつく唇も、叫び出したくなるようなエネルギーが湧き上がる心地よさに身体が火照る。  ずっとしていたい、とすら願ってしまう。  昨日は、離れがたかった。いつも以上に。何度も寮に戻ろうと立ち上がったのに、繋いで手は離せなくて、目があえば、どちらともなくキスをした。寮の裏手で、木陰に隠れて、月明かりは僕たちを見守るかのように雲に身を染めていた。雲の切れ間から光がさすと、唇を離して見つめ合う。月明かりを吸い込んだ翡翠は、七色に小さくきらめき、潤んでいた。雲に隠れると、また唇が触れ合うのだ。  時間を忘れて、二人だけの蕩ける時間を過ごして、ついに離れたのは僕からだった。いつもなら笑顔で、すっと離れていってしまう透は、何度も腕を引き寄せて抱きしめて、キスをしてきた。別人なのかと疑うほど情熱的な透を拒むことはできなかったけれど、何度もそれをしている内に、道を通る一般人の存在があって、いい加減に戻ろうと決心したのだ。僕が出てきた非常階段を上り、寮に入るまで、透は僕を見上げていた。手を振ると、いつもの優しい笑みで透が手を振り返してくれた。それに、心がほどけて戻りたくなってしまう前に、寮へと帰った。 (本当は…)  学園に残りたかった。夏休み中も、寮はずっと開いているし、学習会も学園内で行われる。けれど、それは叶わない。メッセージでやりとりした内容から、透は夏休み中もほとんど学園にいるとのことだった。途中で一度帰省をすると話していた。 (早く、帰りたい…)  透と二人きりの植物園に帰りたい。  なんとか早く帰れるようにできないかと考えるも、すぐに無理だと気づく。 (僕のスケジュールは、僕のものではないから…)  明日の自分が何をするのか。僕は興味がなかった。言われたままに過ごすのが、この家での時間だったから。僕に選択肢はなかった。 (だけど、それも…)  透との未来を願うのであれば、僕も、変わらないといけない。  この夏休み中に、史博と会う機会はたくさんあるはずだった。そのどこかで、僕の思いを伝えなければならない。  アルファの頂点に立つような男である史博の、感情の見えない笑顔と光のない瞳を思い出すと、ぞ、と背筋が凍えた。  夏休み中も彰は足しげく、毎日僕の家に通った。 「今日はいいスイカが入ったから、うちのが気合い入れてゼリーを作ったんだ」  依織好きだろ? そう言って、彰は紙袋を僕に渡す。ありがとう、と小さく答えると一緒に食べようと満面の笑みで彰は、僕の家の執事を呼びつけて、準備するように指示を出す。僕の家の者も彰とは家族のように長い時間を過ごしている。 「古典の課題でわからないところがあるから、依織に教えてもらいたんだ」  依織、古文得意だろ? そう言って、彰は僕の部屋に当たり前のように入って、中央にあるテーブルにカバンを降ろす。  トートバックから課題のテキスト類を広げる。僕は、自分の部屋なのに所在なく、ドアの前に立ったままだった。 「依織、ほら」  彰がゆるやかに微笑んで、彰が腰掛けた隣の椅子を引いた。じ、と強い瞳が訴えかけてきて、抱えた右腕を握りしめて、重い一歩を踏み出す。彰のはす向かいの椅子を引いて座る。僕の少しの反抗だった。  はあ。軽く息を吐きだすような溜め息を聞こえて、恐る恐る視線を上げると彰はテキストに視線を落としていた。もう話題は諦めてくれたのだ、肩を降ろす。引き出しからノートと筆記用具を取り出していると、がた、と音がして、彰が隣に座っていた。目があうと、にっこりと笑った彰が頬の血色を良くして話す。 「ここがわかんないんだ、教えて?」  とん、と長い指がテキストを指す。身構えて、出来るだけ彰との距離を縮めないようにしながら、テキストを覗き込む。長文の古文が書かれたそれは、先日解いたばかりの問題だった。 「ここは…、この助詞がかかってるから…」  説明をしだすと、肩がぶつかった。大げさに身を引いてしまうが、彰は気にしていない風で、テキストとにらめっこを続けていた。だから、僕が過敏すぎるせいかと、むずがゆくなる。先ほどよりもできるだけ腕を伸ばして、説明をする。 「えっと…、これが、この主語ってこと?」 「そう、だから、この動詞は…」  彰が真剣に本文に書き込みをしながら尋ねてくるから、自意識過剰だった自分が恥ずかしくなって、気を許してしまったのだ。説明をしていて、邪魔な前髪を耳にかけると、こめかみに、しっとりと何かが触れた。顔を向けると、すぐそこに、うっとりと瞳を溶かした彰が、甘く笑んでいた。 (だめ…っ)  そう思った時には、腕を引かれて、頬を包まれて唇を塞がれていた。 「あき、ら…っ、や…」 「依織…、好きだよ…」 「ん、んぅ…っ」  くちゅ、と唇を舐められて、急いで引き結ぶ。舌が口内に入りたがるように、割れ目をなぞる。それだけは阻止しなければ、と力を入れる。何度も、熱い唇が吸い付いて、ほどこうとする。 (だから、嫌だったんだ…)  彰が隣に座ると、こうやって距離をつめてくる。そうして、隙があれば、こうして触れてくるのだ。 「依織…、中、舐めたい…、いれさせて…?」 「ん、や、っ…んん」  つかまれていた腕をさらに引き寄せられると、背中に腕が回り、がっちりと身体を密着させられて拘束されてしまう。唇が、愛らしい音を立てながら、優しく、時に強く、吸われる。  彰の大きな手のひらが、頬から首筋を撫でて、胸元を包んだ。目を見開くと、じゅわりと溶けた瞳が合わさり、細められる。 「んー、んっ、や、っ、んう」  首を横に振って、拒絶するが彰は首を伸ばして唇を逃さない。 「あっ」  かり、と彰の指先が、僕の胸元の飾りをひっかいた。痛みに似た何かが身体の中が蠢いて、違和感に声が漏れた隙に、にゅるり、と彰の舌が待ちわびたように入り込んできた。 「や、やあっ、ん、んうっ、あ、うっ」  肩を強く押したり叩いたりするが、ちっとも伝わっていなくて、むしろ腕ごと身体を抱きすくめられてしまって、さらに密着する形になってしまう。 (やだ…嫌…、なんで…っ)  涙が勝手に零れてしまう。  濁った視線の先には、遥か遠くに感じられる、月明かりに隠れて交わした、愛する人とのキスが見える。  目の前で愛を囁いて、暴力的に一方的にぶつけてくるアルファのせいで、もっと遠くの記憶に感じられてしまう。 (忘れたくないのに…)  このままでは、透と再会する前に、あの唇を忘れてしまうかもしれないと漠然とした闇に覆われる。  執事が差し入れのゼリーと紅茶を持ってくるまで、僕への責め苦は続く。目の前のアルファはしあわせそうに、好きだと、何度も甘く囁いて。
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