第43話

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第43話

「遅くなり申し訳ありません」  切れ長の目元を細めて、柔らかく微笑む彼に、誰が批判することができるだろうか。できない雰囲気を持ち合わせている。それが、圧倒的上位アルファである根拠となるのだろう。柔らかな栗毛を後ろに撫でつけ、すらりと手足が長く、けれど、スーツの上からでも引き締まった身体ということが見え透いてしまうスタイルと、辺りに勝手に漏れているアルファの甘やかなフェロモンをなびかせて、その男は僕と目があった。後ろに控える初老の男性が僕に鋭く視線を送ったため、固まった身体をぎこちなく動かす。重い脚で、一歩が重い。けれど、これが、僕の役目だから。  足取りが重い間に、彼の周りは人だかりができていた。笑顔で対応する彼に近づくと、自分からちゃんとやってきた僕に向き直る。それを言葉など何も漏らしていないのに、周囲は察して、僕と彼までに一直線に道が出来る。 「依織、元気だったかい?」  手を広げて待つ彼の元へ震える指先を握りしめながら、一歩一歩確実に近づく。目の前までくると、深々と頭をさげて、顔をあげる際には、笑顔を貼り付ける。 「お久しぶりです、史博さん」  慣れたことだった。  幼少期から、目の前の圧倒的存在であるアルファのものになると決まっていた。会う度に、本能的に畏怖し、内蔵が痺れるような感覚と指先まで身体が震える。けれど、それを見せてはならない。  史博は、僕の指先を掬って、僕と一回り以上違う両手で大切なもののように包み込んで、一撫でした。これをされてしまうと、すべてを見透かされてしまう気がして、じわ、とうなじに汗が滲む。  目尻のつり上がった、彰と同じ色の琥珀の瞳が、じ、と僕を見つめる。何かを探るように。いつもそうだった。全身を探知されている気がして、全身に血流と共にぞわぞわしたものが走る。それを見せない ように、必死に飲み落として、小首をかしげる。 「私の依織、また美しくなってしまったね」  検査が終わると、納得したようにうなずきながら、目を細めて、満足そうに優しいバリトン声でつぶやく。それだけで、周囲からは感嘆の溜め息が聞こてくる。 「これじゃあ、私以外からも引く手数多だろう。心配でならないよ」  史博の硬い指先が爪の生え際をくすぐるように撫でる。それから、そっと持ち上げて、指先に唇が落ちる。 「私の花嫁、会いたかった」  小さく黄色い悲鳴がいくつうか遠くで聞こえる。王子さながらなふるまいが似合ってしまうアルファの笑みからは、底知れぬ恐ろしさが常にあった。けれど、僕は喜んで受け入れ、この世の中で最もしあわせなオメガなのだと信じこまなくてはならなかった。周囲の誰もが、そう囁くのだから。 「史博さんが小さい時に、一目惚れなさったそうよ」 「なんて美しい方なんだ」 「宗教画のように美しいわ…」 「運命の番というのは、本当にあるのですね」  僕たちを取り巻く、外側の人間から好き勝手な言葉が聞こえてくる。 (全然、そんなことない…)  ただ、近くにいたオメガだったからだろう。  たまたま、商い事で都合のいい相手だったからだろう。 (誰だって良かった…、僕じゃなくたって)  世の中の何の意味をなさない小さなパーツの僕は、自我を殺して、目の前の誰もがうらやむ婚約者様に微笑み返す。それから、腕を出されたので、その肘に慎まやかに指先をかける。それは、僕のスーツと同じ生地感で、ダークグレーに水色のチェックのものだった。ネクタイは僕のスーツと同じベージュカラーだった。  将来の婦人として、全国シェアを持つ日本代表の大手企業に二十代でありながら経営陣として参加している史博の隣でお飾りとして微笑む。ご挨拶をして、妻のような顔をする。それが、僕の仕事なのだ。  心では嫌だと泣き叫んでいるのに、長年染みついたことは簡単にできてしまった。  仕事の話をする雰囲気の時は、史博のためにオードブルを小皿に盛り付ける。持って帰る頃には、ちょうどその相手との別れる頃合いだった。 「依織は、私の好みをよく知っているね」  パーフェクトだ。と、盛り付けた皿を褒められて、頭一つ分背の高い史博が身をかがんで、つむじにキスをする。彼の後ろに立つ初老の秘書が、幼い頃からずっと教えてきたことをしているだけだった。けれど、史博が機嫌良さそうにしているのであれば、問題ない。それでいいのだ。  過去に一度だけ、笑顔でない史博と対峙したことがあった。  小学校高学年のころ、五歳年上の史博は、もう高校に入学する頃合いだったはずだ。  いつものごとく、彰と一緒に大田川の車で学校から帰宅した。彰が一緒に宿題をやろうと誘ってくれたので、彰の部屋で過ごそうとしていた。大田川の家は、基本的に彰と執事たちしかいなかった。両親はもちろん、兄である史博も中学生の頃から経営陣として放課後は両親や秘書たちと共に働きに出ていたからだ。その方が僕も気兼ねなく過ごせて安心できた。何より、史博がいると彰が元気なくなってしまい、毎回可哀そうに見えたのだ。  幼いながらに、あれだけすごい兄を持ったら色々あるだろうなあ、と思ってはいたから、僕の隣にいる間くらいは、彰に元気でいてもらおうと明るく振る舞っていたのも覚えている。  来慣れた彰の部屋で一緒に並んで宿題をしていた。ちょうど梅雨への変わり目で、寝苦しくなっていたこともあり、その日は、珍しく睡魔に襲われた。うと、としては、顔を振って眠気を飛ばす。宿題に集中しようとしてもできなくて、隣を見れば、彰はきれいな字をすらすらとテキストに書いていた。邪魔してはならないと思い、自分も頑張ろうとするが、気づけば、突っ伏して眠ってしまっていた。  首筋に、ちく、と痛みがあって、意識が戻ってくる。 「んう…」  ぼやけた瞳を、指先でこすって身体を起す。節々が固まっていて、そんなに寝てしまっていたのかと回らない頭で考えた。目の前に人影があって、瞬きを繰り返して視界をはっきりさせる。 「彰…?」  それにしては大きい気がした。服装も、僕たちの制服の白いシャツではない。ブルーの大きなシャツと黒のネクタイが見える。 「あ…」  ぽや、とした頭が目の前の存在を認識する。それは、高校の制服に身を包んだ史博だった。史博は僕を光りなく鋭い視線で見下ろしていた。いつも優しい笑みを見せるものと真逆な彼に驚いて、背筋が急に伸びる。喉元をぎゅっと握られたような気さえした。 「ふみ、ひろ、さん…?」  なんで史博がいるのだろう。頭をかしげて唱えると、頬杖をしながら僕を見下ろしていた史博が、にこりと笑った。先ほど、冷たい瞳で見下ろされていたと思ったけれど、寝ぼけていただけのようだった。 「ダメじゃないか、依織」  声変わりをして、さらに低く響く声になった史博の声が柔らかいはずなのに、冷たかった。ぞ、と指先から体温が引く。 「僕以外のアルファのもとで寝てしまうなんて。私にいくら心臓があっても足りないよ?」 「あ…、その…」  くす、と笑う史博の顔は、口角はあがっているのに、笑顔には見えなかった。 「おまけに、私を他のアルファと間違えるだなんて…」  僕の乱れていた前髪を長い指先が、そ、と掬って整える。どきりとした僕は、冷や汗を滲ませながら身体を硬直させるしかなかった。 「依織、僕は他のアルファに自分の大切な子が汚されるのが一番嫌いなんだ」  それまで笑顔の史博しか見たことがなかった僕は息をつめた。真顔で僕を見下ろす史博は、怖かった。  本能が、いけないことをしてしまった、と訴えて、全身を震わせた。口の中がからからになって、言葉がうまくでなかった。呼吸すらもあやしい。  固い爪が僕のこめかみから、頬を撫でる。ぞわ、と悪寒が背中を辿る。指先が、僕の顎を掬う。 「依織は私のものなのだから」  わかったかい?  じ、と見下ろす瞳は底を知らない真っ暗なものだった。何かもよくわからないけれど、身体が勝手にうなずいてしまった。すると、史博は機嫌の良い笑みにころり、と変えて、ふふ、と小さく笑った。 「私の依織、愛しているよ」  かすれた声で囁くと、顔がゆっくりと近づいてきて、僕の頬に温かい唇が吸い付いた。そこから全身に毒が回るように、びりびりと痺れていった。茫然としていると、気づけば史博はいなくなって、彰が血相変えて帰ってきた。  何かあったか、兄さんに何された、とすごく怒ったように聞いてきたけれど、何も答えられなくて、大丈夫、と笑うしか僕にはできなかった。本当に、言葉にはできなかった。ただただ、身体の中には、絶対的な存在のアルファを敵に回してはいけないのだという防衛本能がずっとざわついて落ち着かなかった。  その日は家に帰っても、怖くて眠れなくて、翌日、授業中に寝てしまうという失態を犯してしまい、情けなさに泣いてしまう。気にするなと必死に彰が励ましてくれて、僕はようやく息をつけたような気がしたのだ。
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