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第1話
それは、満足すぎる人生なのだと思う。
お金にも食べるものにも、不自由などしたことない。
むしろ、有り余るほどのものを与えてもらってきた。
欲しいもの、というものを持ったことがなかった。
大体が、欲しい、と思う前に、与えられていたからだ。
裕福な家庭に生まれ、厳格だけれど愛情ある両親に育てられ、めいっぱい可愛がってくれる兄が二人いて。たくさんの執事たちが僕を大切にしてくれた。
勉学も学校で習えば、きちんと理解できた。
苦労という苦労もしたことがない。
挫折、というものとも無縁だった。
僕が傷つかないように、周りの大人たちが原因となりそうなものを取り去ってくれていた。
だから、兄たちと同じ桐峰学園への進学を希望した時に、家族は焦燥し、心底心配した顔で僕を見守った。
全寮制の学校にいれることを、両親は寂しそうにしていたし、兄たちも母校である学校の内情をよく知っているからこそ、僕を心配した。
それでも、僕の意思を尊重してくれたには、理由があった。
僕の自由も、高校卒業までだから。
教室の窓からは、少し前まで立派な桜並木が見えていた。ぼそぼそと喋る歴史の教師の中国史についての説明を聞きながら、ふと目を外にやる。青々とした桜の木々からは、生命を強く感じられた。それは、明日来る輝かしい未来を待ち望んでいるような強さもある。
(僕とは、間反対だ…)
長い睫毛を伏せて、気づかれないように小さく溜め息をついてから、視線をノートに落とした。手元には、上品な藍色のボディにゴールドで「Iori」と筆記体で書かれたペンがある。兄が入学祝いにプレゼントしてくれたこのシャープペンシルも、もう三年目の付き合いだ。
教師のつぶやいた事柄をノートに書きこんでみる。さらり、と書ける書き心地の良さが、毎日使っていても心地が良いと思える。兄の愛情を感じて、心が綻ぶようだった。
ふ、と何かを感じて振り返ると、金色に輝く、肩につく長さの髪の毛をハーフアップにまとめ、ゆるくパーカーを着る幼馴染が頬杖をついてこちらを見ていた。ぱち、と視線がぶつかると、長年の付き合いの彰は、いつもの人好きのする笑みを、へらり、と見せて、口パクで、おなかすいた、と喋りかけてきた。相変わらず、ぼそぼそと教師の説明は続き、周りの生徒たちは寝ていたり、違う参考書を解いていたり、ゲームをしている生徒までいる。彰は僕と同じで一応授業を受けている姿を見せていた。
見慣れた顔を見て、安心した僕は、ふ、と笑って、ぼくも、と答えた。彰が頬杖をしたまま、笑みを深めたのを見て、僕は前に向き直った。
(自由に、勉強ができるってしあわせなことなのに…)
その権利を捨てて、教室に拘束され、時間を潰している隣の席の生徒にも、前の席の生徒にも、醜い嫉妬心を抱いてしまうのを飲み込むように、僕は教師の言葉をそのままノートにとることに専念した。
「いーおりっ」
号令と同時にチャイムが鳴り、周囲がざわめきに溢れると、後ろから長い腕が身体に巻き付いてきた。背中に温かく大きいものを感じて振り返ると、当たり前のように彰が僕に抱き着いていた。ふわ、と甘い果物のような匂いがして、柔らかな金の毛先が僕の首筋をくすぐった。それにも、もう慣れたもので、僕はペンをポーチに入れ、チャックを閉める。
「今日も、食堂で食べるでしょ?」
ね、と小首をかしげて聞いてくる彰に、周囲の生徒が頬を染めて、こそこそと耳打ちをしあっている。
「うん、彰も?」
そうした視線に彰は慣れているのか、気づいていないのか、全く気にしている素振りはない。もちろん、と満面の笑みで微笑む。
「そうと決まれば、早く行こっ! A定食なくなる!」
僕の手を、一回り以上大きい手のひらですっぽり包んで引っ張り上げた。足がもつれかけながら、急いで立ち上がるとバランスが取れずに目の前の身体に飛び込むように倒れる。きゃっ! と、僕ではなく、周りから声が聞こえた気がした。
軟派な風貌なのに、意外と身体はがっしりとしている彰の胸元から身体を起すと、上目に目の前の人物を見上げる。
頬を柔らかく染めて、嬉しそうに顔をゆるます彰に、ごめんね、と謝ると、頬を撫でられる。
「もっとくっついてて、いいのに~」
つや、と彰の瞳が色を変えた気がしたけれど、すぐに、おなかすいた~、と伸びをしながら歩きだした彰に背中を見せられてしまう。小首をかしげていると、教室の入口で彰が振り返って、はやく~と頬を膨らまして待っていた。それを見たクラスメイトたちが、かわいい、とくすくす笑って、彰を甘やかしていた。僕も、眉を下げて笑いながら、足を一歩踏み出した。
食堂はいつもにぎわっている。一学年十クラス以上あるマンモス校である桐峰学園の食堂は和洋中、フランスにイタリア。様々な料理コーナーを設けている。中でも人気なのは、ボリュームある和食と中華だった。食べ盛りの生徒たちはこぞって大盛りを頼む。僕と彰も和食コーナーに並び、僕は親子丼の小を注文する。宣言通りのA定食の超大盛を頼んだ彰に、また少食だと言われて、小鉢を追加されてしまった。僕の食べられる最大の量を考えて、ぎりぎりを攻め込むのに彰は長けている。オクラと鰹節を合わせたものに山芋がたっぷりとかけられている小鉢は確かにおいしそうだった。
先に僕の頼んだ丼が届き、彰に丼じゃなくて茶碗だと揶揄されながら、いつもの窓際の席に腰掛ける。柔らかな日差しに目を細めながら、彰の到着を待つ。
(あと何回、この日差しを浴びれるのだろうか…)
別に、死ぬわけではない。
それなのに、最近、気づけば、まるで余命宣告された人のように鬱々としたことを心の中でつぶやいてしまっている。よくない、と首を横に振っていると、また後ろから誰かにのしかかれる。鼻腔を、重く甘い匂いがくすぐったと思うと、もう身体の中が浸食されていく。硬い指先が僕の顎を捕まえると、頬に柔らかく湿った感触がする。また、遠くから悲鳴が聞こえた気がした。
この匂い。人の気をまったく考えない横暴な態度は、いつものことである。
「怜雅…、もう、やめてっていつも言ってるでしょ?」
「ん? そんなこと言われたことあったか?」
振り向くとすぐそこに、金に輝く力強い瞳がある。すべてを吸い込んでしまいそうで、星が瞬くようにまばゆい。
その宝石のような瞳を長い睫毛が縁どって、涼やかな切れ長の眦が凛々しい。鼻筋はまっすぐ通って、淡いピンクの唇はふるり、と濡れている。多大な色気を振りまくアルファらしいアルファは、何千人という桐峰学園のトップに立つにふさわしい姿だった。
「それより、いつになったら、依織は俺の部屋に来るんだ?」
わざとらしく、かすれた甘い声で僕の目元を撫でながら囁く。
「へ、んな声出さないでよ…っ」
耳元がざわざわと落ち着かなくて、彼の胸元を押すが、怜雅は機嫌良さそうに笑みを深くする。
怜雅のフェロモンに失神する生徒が見えて、急いで止めるように声をかけようとしたその時、視界からその男が消えた。
「怜雅、何してんの?」
低い声で唸る男は誰かと振り向くと、いつものへらへらした笑みを無くした彰がA定食を片手に、怜雅を突き飛ばしたところだった。後ろの数歩下がっただけの怜雅は、彰を見て、眉と口角を上げて、やれやれと笑った。
「可愛いオメガがいたら口説くのがアルファの務めだろ?」
「確かに依織は世界一可愛いし美しいけど、会長には、可愛いオメガがた~っぷりいらっしゃいますよね~?」
彰はわざと一つ一つはっきりと言葉を切りながら怜雅に伝える。その言葉を待ってましたと言わんばかりに、怜雅の両腕にそれぞれ小柄で可愛らしい男子生徒が抱き着いた。
「会長っ、今日は僕の約束ですっ」
「姫ばかりでは、僕たち寂しいです」
大きな黒目をうるうるとさせて、彼を見上げる二人は生徒会長の親衛隊というやつらしかった。
(姫…)
この桐峰学園に入学して三年が経つ。
未だに、姫、と呼ばれることが自分の中でしっくりと来ない。
入学した当初から、やけに視線を感じてはいた。それは、中等部・初等部・幼稚舎とある桐峰学園の内部生たちにとって、外部受験をして入学した自分が珍しいからだと思っていた。しかし、一日も経たずして、複数人の知らないアルファから告白を受けて、可愛い可愛いと言われ、お世辞かと思っていたが、ここの卒業生の兄たちがやたらと心配してきたことを思い出し、なんとなく合点がいった。周囲が一歩、僕と距離をとってこそこそ話しているのには、最初、戸惑いしかなかったけれど、それは、悪意的なものではないのだと、一緒に入学した幼馴染の彰が教えてくれた。試しに、その集団に手を振ってみたら、きゃあっと悲鳴をあげられて、顔を真っ赤にして走り去られてしまった。嘘じゃないかと彰を睨んだが、次の日も、その集団と目が合って、愛想笑いを浮かべるとそれだけで悲鳴と赤面と笑顔を見られたので、どうやら嫌われているわけではないのだと彰の言っていることが嘘ではないことがわかった。
幼馴染の彰は、家族の心配によって、僕の進路に合わせて、共に入学してくれた。彰がいなければ、僕は彼らの視線をいじめだと思い、薄暗い三年間を過ごすこととなっただろう。
気づけば、僕は陰で姫と呼ばれているらしかった。外見を褒められることは多かったが、自分の容姿が優れているという感覚は一切なかった。しかし、よく隣にいる彰の容姿が優れていることは、流行りや容姿にうとい僕でもわかった。一緒に帰ろうとすると、下駄箱に手紙やプレゼントが入っていることはよくあったし、帰り道で誰かが彰を待っているなんてことも、しばしばあった。その内容は、全て好意を表すものだった。
そのため、外部生では珍しく、彰は生徒会に推薦され、会計という役目に収まっている。
桐峰学園の生徒会は、学力だけでなく、家柄、財力、容姿、なにより人気のあるカリスマ性の高い生徒たちのみで構成される。最初、彰は推薦を断っていたが、周りの熱心な彰の親衛隊の粘りで引き受けることを決めていた。
そして、目の前で子猫のように愛らしい二人に挟まれている怜雅は、圧倒的票数で生徒会長へと推薦された男だった。
怜雅も、もともと幼い時から知っている幼馴染のような存在だった。中等部から桐峰に通っていた怜雅がいる、というのも、僕がこの学校を選んだ一つの理由だった。
小さい頃から怜雅は僕より頭一つ大きくて頼もしい存在であり、憧れだった。何をやっても完璧だった。それなのに、本人からは大した努力の姿が見受けられず、天才とは彼のような人のことを指すのだと小さいながらに感じていた。
そんなこともあって、昔馴染みな僕を、怜雅は怜雅なりに気にかけてくれている。小学校六年間をアメリカで過ごした賜物の近すぎるコミュニケーション方法も、その一つなのだ。
怜雅と目が合うと、大きく溜め息をついて踵を返した。食堂の奥には、生徒会メンバー用のバルコニー席がある。そこに足を向けながら、怜雅は振り返った。
「次の発情期こそ来いよ」
片目を軽く閉じて、そうつぶやくと、また周りでがたがたと人が倒れる音がした。それに視線を移す前に、定食をボードごと机に置いた彰が僕を抱き寄せて、怜雅に向かって、しっし! と手で払ってから舌打ちした。
「あんなのに捕まったら、どんな病気をうつされるか…」
肩を掴まれてから、絶対ダメだからね! と母親のように念を押してくる幼馴染に、くすりと笑ってしまった。
僕の日常は、全てにおいて恵まれていた。
優しい友人もいて、楽しい毎日なのだ。
だけど、どうしてだろう。
わかっているのに、僕の中には、常に、猛烈な焦燥感と不安感と、虚無感が日に日に増していくようだった。
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