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「三年?」
茫漠とした時間に、僕の声が裏返る。
「嘘だろ? 三年もかかるのか?」
すると、彼女は首を横に振った。
「嘘、一年」
「嘘?」
血管が痙攣するように震えるのが分かった。
「お前、いい加減にしろよ。なんでそんなことを…」
人を舐め腐っている、女子高生のコスプレをした女に一喝しようと息を吸いこんだが、風船の空気が抜けるように、身体の力が抜けた。
「…い、一年? 一年もするのか?」
最初に言われた三年に比べれば大分少なかったが、それでも、一年もこの状態というのは気が遠くなった。
皆月舞子は椅子を揺らしながら頷いた。
「だってそりゃ、一から書き直すんだから、そのくらいの時間は必要でしょう? しかも、こういうことするの初めてだから、もっと時間がかかる可能性だってあるし。二年、三年、もしかしたら、四年…」
そして、椅子を止めると、背を丸め、上目遣いに僕を見た。何か企みを含んだ、艶っぽい目だった。
「そこでよ。提案」
「提案…」
思わず身構える。
皆月舞子は己の胸に手を当てた。
「いい? 私は今から約一年もの間、ナナシさんに付きっ切りで復元作業を行うの」
「…ああ、うん、確かに」
「確かに、私はあの店から大金を貰っているし、必要経費は申請すればもらえるけど、それをもってしても、一年も働き続けるのは割に合わない。現実的じゃない」
あんたも嫌でしょ? と言って、彼女は僕の胸を指した。
「私みたいな面倒な女と一緒にいたくないでしょ」
「いや、そんなことは…」
「あらそう? 私はあんたみたいな根暗と一緒にいるのは嫌よ」
相手を不快にさせまいと思って否定したのに、強烈なカウンターが返ってきて、僕の胸に突き刺さった。
この野郎…って思う。
「まあまあ、そんな怖い顔しないでよ」
悪びれる様子も無く、皆月はへらっと笑い、己の眉間をトントン…と叩いた。
「だから、こうしない? 私があんたのために、新しい過去を書いてあげる。その作業なら、大体一か月で済むわ」
「え…」
一瞬は、こいつ何を言っているんだ…と思ったが、すぐに理解する。
「ああ、なるほどね。確かに、割れてしまった窓ガラスを一つ一つ繋ぎ合わせて修復するよりも、新しいガラスを買った方が早い」
僕の例え話に、皆月は満足そうに頷いた。
「その方が現実的でしょう?」
「まあ、そうだけど…」
黙って考える僕の顔を、前のめりになった皆月が覗き込む。
「もしかして嫌?」
「嫌と言うか、消えてしまった過去がどういうものだったのかをわからないのに、こうも簡単に新しい過去を上書きする気にはなれないというか…」
時計と同じだよ。きっと思い入れがあるんだ。だから、壊れたとて新しいのは買わず、修理に出したいものなのだ。
すると、皆月は鼻で笑った。
「あんたの人生なんて大したことないでしょ」
その言葉に、心臓が締め付けられるような気がした。
皆月舞子は、その黒髪を揺らす勢いで椅子の背もたれに体重を掛ける。
三日月のように細まった目の隙間から、黒い瞳が僕を嘲笑った。
「大丈夫だよ。心配するほど、ナナシさんの人生は良いものじゃないから。だから、安心して新しい過去を書けるよ」
次の瞬間、僕は二歩踏み出し、皆月舞子の目と鼻の先まで詰め寄っていた。
「お前…」
視界が一瞬、赤く染まる。関節の隙間で怒りが爆発し、腕が勝手に動き、皆月舞子の胸倉を掴む。そのまま押し倒そうとしたのだが、良心がそれを引き留めた。
結果的に僕は、皆月の胸倉を握るだけ…という、なんとも間抜けな格好のまま固まった。
皆月舞子の冷めた目が僕を見る。それから、こほん…と咳ばらい。
「えっち」
「あ、ごめん…」
謝る必要なんて無いのに、そう言って手を放す。
暴力に訴えられそうになったことを咎めるようなことはせず、皆月舞子は、乱れた襟を直しながら言った。
「個人的に、あんたの人生を修復するのはお勧めしないわけ。面倒くさいってのもあるけど、良心でもあるわ」
「良心?」
一体何の建前が出てくるのやら。
僕が身構えていると、皆月舞子はその細い身を捩り、パソコンのキーボードを弄る。そして、何かのファイルを開いた。
「バックアップは取っていないとはいえ、ビタースイートを作成するにあたって行ったカウンセリングの情報は残ってる。依頼内容だね。何処のどの部分の過去を改変してほしいか…っていう確認。その情報によると…」
僕の方を見て、言った。
「ナナシさん、あんた、昔自殺しようとしたでしょう?」
「え…」
思いもよらぬことを言われて、僕は間抜けな声をあげて固まった。
背筋を、冷たい汗が伝う。
「自殺って、あの自殺だよな?」
焦りからか、バカみたいなことを言ってしまったと思う。だが、皆月舞子は無視して、パソコンのタッチパッドに触れながら淡々と言った。
「今回、ナナシさんが真崎さんに依頼したのは、『自殺をしようとした過去の消去』だってさ。その理由は、今もなお、その時の記憶が蘇って、生活に支障を来すから…とのこと。そして真崎さんはその部分だけを消去した」
息を吸い込んだ彼女は、にやりと笑って言った。
「自殺をする人間が、良い人生を歩んでいると思う?」
「…それは」
返す言葉が見つからず、僕は唇を結んだ。
「きっと歩んでないでしょうね。だって、そうじゃなきゃ自殺なんてしないんだし…」
髪を掻き上げた皆月は、欠伸交じりにそう言った。
「いじめ、虐待、貧困…、何があったかは知らないけど、いずれにせよ、自殺未遂を犯すような人生、碌でもないでしょうね…。そんな過去を復元したところで、気分のいい結果にはならないんじゃない?」
そこまで言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべ、パソコンのエンターキーを三回叩いた。
「私だったら、修復は諦めて、新しい過去を作成するね」
「…………」
そう言われてもまだ、僕は返答に困った。
皆月舞子の言っていることはわかる。自殺をするような人間の人生なんて良いものじゃない。そんな人生を一年近くかけて直し、また気分の悪い思いをするよりも、一か月かけて全く別の新しい人生を書いたほうが現実的だと…。
わかってる。でも、答えられない。
本当にそうなのだろうか? 本当に、僕の人生は悲惨なものなのだろうか? と思わずにはいられなかった。
「ほら、このパソコン見て」
固まる僕を見て、皆月は何を思ったのか机の上のパソコンを指した。
「このパソコンを買い替えたのは、三か月前だね」
「急に何を言う」
「うっかりコーヒー零しちゃったの。すぐに電源落としたんだけど、それよりも先にショートしちゃったみたいで…。修理はできないことはないけど、せっかくだから、もっとハイスペックな奴に買い替えようと思ったんだ」
ほら、良いでしょう? コアの数は…、メモリの数は…と、パソコンの自慢を始める皆月。
「なるほどね」
彼女の言わんとしていることが理解できた僕は、その言葉を遮る様に、ため息をついた。
「せっかくだから、もっと良いパソコンを。せっかくだから、もっといい過去を…。そういう気楽な心持でいた方がいい…ってわけか」
僕は彼女に同意した。
「確かに、せっかくだから良い過去を書き直すってのも、いいかもな…」
「だよね。だよね!」
皆月舞子は拳を握り、激しく頷いた。
それから何を思ったのか、椅子を回転させ、パソコンの方を向き直る。
「助かるよ。それじゃあ、早速ナナシさんの新しい過去を作っていくね。どんな親の元に生まれたらよかったとか…、どんな友達がいたらよかったとか、才能とか、境遇とか、あと恋愛とか! 書いてほしいのがあったらどんどん言ってね」
楽しそうに言いながら、メモのようなソフトを起動する。
「いやあ、楽な仕事で助かる。一か月で十二か月分の給料を手に入れられるもんだからね。なんなら、もっと時間がかかった風によそって、もっとお金を貰えるかも」
あ…と声をあげ、僕の方を振り返る。
「もちろん、独り占めはしないよ? お礼として、ご飯くらいは一緒に行ってあげるからさ」
「おい待てよ」
一人で勝手に話を進める女の肩を掴んだ。
無理やり振り返らせる。
「僕はまだ、イエスともノーとも言っていない」
「うん?」
皆月はにこやかに首を傾げた。
「新しい過去、作っていいんでしょう?」
「ダメだ」
即答だった。
「は?」
皆月の声が裏返り、目がぱっちりと見開かれる。口はぐにゃりと歪み、その端から間抜けにも涎が垂れた。
口を拭った皆月は、震えた声で言った。
「ちょっとなんでよ。言ったでしょ、復元したところでいい結果にはならないって」
「それは復元してみないことにはわからないだろ」
「そ、そりゃそうだけどさ! 一年だよ? 復元には一年もかかるんだよ? もしかしたら、三年もかかるかもしれないし」
「確かに長いけど、仕方がないことだ。パソコンだって、一日や二日で修理ができるわけじゃないだろ? 待つしかない」
「一年間もあんたに付きっ切りで過去の復元をやるのよ? 割に合わないわ」
「割に合おうが割に合わなかろうが、それが君の仕事だ。金ってのは、仕事に責任を持つために受け取るんだ。いくらもらったのか知らないけど、それ相応に働け。納得いかないのなら、あの店に抗議して給料をあげてもらえ」
「い、いや…、それは…」
皆月は隅に追い詰められた子犬のように小刻みに震えた。
「わ、私だって、仕事を選ぶ権利はあるんだからね!」
苦し紛れの反論。
「私の判断一つで、あんたの過去はもう二度と戻らないんだよ?」
「引き受けないのなら結構。受け取った金はあの店に返すんだな」
「う…」
さすがに「上等だよ。こんな金要るか!」と突き返す度胸は無いらしく、彼女の目に迷いが滲んだ。
僕はさらに畳みかけた。
「中途半端な仕事しかしないのなら、僕はこのことをクレームとして、あの店に伝えなければならない」
皆月は何も言わない。歯を食いしばり、頬を赤らめて僕を睨むだけ。
僕はため息をついた。
「何を悔しがる必要があるんだ。君は仕事をする。そして金を受け取る。損なんてしていない」
ふと視界の隅に、先日真崎さんからもらったアロマセットの箱が映った。
「君はさっき、あの店のいい加減な仕事を批判したけれど、今のところ、いい加減なのは君の方に見えるぞ」
「はあ?」
そう言われるのは心外だったようで、彼女は椅子を倒して立ち上がった。
「舐めないでくれる? 私が真崎さんらと同類だって?」
「同類どころか、それよりも下だ」
勝利の美酒を舐めた僕は、肩を竦めた。
「結果的に失敗したけど、あの店は本当に親切にしてくれたよ。でも、君はどうなんだ? 態度が悪い。過去の復元ができない上に、いい加減な仕事しかしようとしない。ただの給料泥棒。独立した…なんて言ってたけど、その理由が目に浮かぶ」
「このっ…」
たまらず、皆月が腕を振り上げた。だが、そのしなやかな手が僕を殴るようなことはせず、ただただ、空中を泳いだ。そして、糸が切れた人形のように垂れる。
俯いた皆月は、上目遣いに僕を睨んだ。
「わかった。やってやるわ」
「それが当たり前だ」
彼女は提供者で、僕はお客様。しかも神様。
その立ち位置を決定づけた僕は、鼻を鳴らし、彼女の額を小突いた。
「じゃあ、その方向で頼む」
「言われなくとも」
皆月は舌打ちをすると、机の引き出しを蹴った。
「悲惨な過去を復元して、泣かせてあげる」
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