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第二章【青春盗掘】
ギクシャクとしたまま、僕と皆月は過去の復元を開始した。
「それで、まずは何から始めるんだ?」
「残っている情報の確認」
皆月は頬杖をつき、不貞腐れた声のまま言った。
「さっき言った通り、ナナシさんの過去の九十五パーセントは消滅した。でも、五パーセントは残ってるわけ。その情報を確認して、そいつを頼りに始めて行くよ」
すると皆月舞子は、鞄から黒縁の眼鏡を取り出し、それを掛けた。
横から見たが、どうやら度は入っていないようだ。コスプレ…ってわけじゃなく、多分、ブルーライトカット的な奴だろうな。猫のような目をした彼女には、あまり似合っているとは言えない。
くいっ…と眼鏡を押し上げた皆月舞子は、パソコンに触れた。
「でも良かったね、五パーセントも残ってて。もし全部消えちゃってたら、過去の復元が困難になるだけじゃなくて、廃人になってたかも」
「…廃人」
ぼろぼろの身なりをして、誰も理解できない譫言を発しながら彷徨い歩く自分を想像する。その身体からは異臭が漂い、食事も、排泄もまともにできない…。
そうならなくて、本当に良かった…。
「確かに、良かったな…」
「嘘よ。過去が消えたところで、肉体は覚えているからね。そこまで酷いことにはならないわ。よかったわねえ、私におしめのお世話をされなくて」
「…………」
僕はもう反応しなかった。
皆月舞子もそれ以上嫌味を言うことは無く、そのしなやかな指でパソコンのキーパッドに触れる。
「じゃあ、最近のことからやっていこうか」
「最近?」
思わず声を上げると、皆月舞子は眉間に皺を寄せて振り返った。
「なに? 何か問題でも?」
「ああ、いや、てっきり、生まれた時から順番に…って思ってたから」
「A型人間じゃあるまいし、面倒なこと言わないでよ」
そして、またパソコンに向き直る。
「脳には記憶が残っているの。しかも、最近の方が新鮮だわ。新鮮な記憶を新鮮なうちに思い出した方が楽でしょう?」
「ああ、そうか…」
新鮮な過去は、新鮮なうちに復元する…。なるほどね。
「それで? 消えずに残った五パーセントの僕の過去で、一番新しいものは何だよ」
「ミナミちゃん」
「え……」
間髪入れずに答えが返ってくるものだから、僕は面食らって、変な声を上げた。
自分の聞き間違いではないか、恐る恐る聞き返す。
「み、みなみ? 何それ」
「私に聞かないでよお。ここに書いてあるんだから」
皆月はそう言うと、身体を横にずらした。
僕は皆月の肩越しに、パソコンの画面を見る。
「……いや、わからん」
そこに書いてあったのは、英語のような、漢字のような、はたまたヘブライ語のような、理解不能な文字列だった。おそらく、姓名変更師の中で使われる言語なのだろう。
「これ、なんて書いてるの?」
「だから、『ミナミ』って書いてるの!」
声を荒げた皆月は、コツコツ…と指で机を叩く。だが、そこは成人済みの大人のようで、深いため息をついて、苛立ちを抑える素振りを見せた。
気を取り直し、僕に聞く。
「で? 誰よ、ミナミって。正確には、『二〇一七年 十一月二十九日 ミナミ』だけど…」
二か月くらい前の話か…。
「いやいや、名前が無い僕が分かるわけないじゃないか」
「記憶を辿れって言ってんの! あんた私の言ってること全く理解してないよね」
前言撤回。我慢ならなくなった皆月は、立ち上がると、僕の額を小突いた。結構、痛かった。
僕は涙目になって反論する。
「そもそも、『ミナミ』だけじゃわからんだろ。例えば、僕はその日、ミナミってやつと何をしたんだ? そもそも、それは人の名前なのか?」
「仕方ないじゃない。あんたの過去、滅茶苦茶になってるんだから! ぶっ壊れた機械のネジだけが落ちてるようなもんよ!」
などと、僕にもわかる秀逸な例えを披露した皆月は、じれったそうに指を鳴らした。
「とにかく思い出して。その腑抜けた脳みそに、記憶が残ってるでしょう? それを無理やり捻り出せって言ってるの! ほら、さっさとやってよ」
「いや…、だから、そんな急に…」
言いかけた僕だったが、皆月に睨まれて口を噤む。
正直、思い出せる自信はなかったが、買ったばかりのノートのような脳みそに働きかけて、彼女の言う「ミナミ」という人物が該当しないか確かめた。
一応、「ちゃんと思い出していますよ」というアピールを兼ねて、目を閉じ、こめかみをとんとん…と叩く。
「そういうアピールいいから」
「はいはい」
ミナミ…、ミナミ…、ミナミ…、ミナミ…、ミナミ、ミナミミナミ…。
「みなみ、ミナミか…」
人物の名前なのか、方角のことを指しているのかわからない言葉を呟いた、その時だった。
僕の後頭部を、電気のような刺激が駆けた。
「あ」
思わず目を見開き、声を洩らす。
僕の様子に、皆月は目を輝かせて身を乗り出した。
「思い出した? それで? ミナミって誰なの?」
「いや、わからん」
「なんでよ!」
思わせぶりな態度を取った僕に、皆月は拳を握りしめた。
腹を殴ろうとしているのがわかったので、僕は手で制する。
「待てよ。思い出せそうなんだ」
無視して、皆月は僕の腹を殴った。大した力ではなかったが、僕の胃は悲鳴を上げ、危うく胃酸が噴き出すところだった。
お腹の痛みに耐えながら、僕は眠りこけている記憶を呼び起こそうと奮闘する。
「…みなみ、みなみ、みなみみなみ…」
多分、僕はこの名前を知っている。皆月が言った通り、僕の脳みそはこの名前を憶えているようだ。でも、それが誰であるか? 僕とどう関係があるのかまでは、思い出せなかった。
これが舌先現象ってやつだろうか?
「…みなみ、みなみ、みなみ」
思い出せ。僕なら思い出せる。もうこの辺りまで出かかっている…。
思い出せ…。
そうして、僕は十五分ほど悶々とした。だが、現実は非常なり。それほどの時間を費やしても、その「ミナミ」について思い出すことはできなかった。
「ごめん、無理だ…」
遂に諦めた僕は、顔を上げた。
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