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第一章【拝啓 忘れられた僕へ】
「……この、映画の、タイトルは…」
己の寝言で、目が覚めた。
脳と頭蓋骨の間に冷水を流し込まれるかのような感覚に、僕ははっとして瞼を押し上げる。見えたのは白い天井で、照明が煌々と輝いていた。放たれる白い光は僕の眼球を貫き、脳が焼けるような不快感が胸に落ちてくる。
口の中が、乾いてべたついていた。
なんとなく目を動かすと、木目の美しいオフィスデスクが見えた。その上には、高そうなデスクトップパソコンが設置されている。モニターの電源は付いているようだが、画面は青く染まって、どことなく無機質な雰囲気を漂わせている。メカニカルキーボードの傍には、マグカップが置いてあって、底でコーヒーが黒く乾いていた。
さらに目を動かすと、どうやら僕は、チェアの上に横になっているようだった。膝には、ピンク色の可愛らしい毛布が掛けられていて、すぐ傍の台には、飲みかけのミネラルウォーターが一本。
部屋の広さは、大体六畳くらいだろうか? 床は艶やかなリノリウムで、ベージュ色の壁には、世界の絶景を映したカレンダーが掛けられている。
なんとなく鼻を突くのは、香水の匂い。
「…………」
僕の部屋じゃない…、ということは、すぐに分かった。となると、ここはどこなのだろうか? 雰囲気的には、病院の診察室とも捉えることができる。
これ、起き上がってもいいのかな?
そう思ったのは、なんとなく、動いたら撃ち殺されるような気がしたからだ。
息を吸い込んで、吐いて、吸い込んで、吐いて…。逸り始めた心臓を何とか落ち着かせると、絆創膏を剥がすかのように、右腕を上げる…。つもりだったのだが、腕が動かない。どうやら長時間、身体と肘掛けに挟まれていたために血流が滞り、麻痺しているようだった。
橈骨神経麻痺…だっけ? とにかく、珍しいことではないとわかっていた僕は、特にパニックを起こすことは無く、身を捩り、腹筋の力を使って身体を起こした。
身体は鉛のように重いが、視界は良好。
肩を竦めると、背骨が乾いた音を立てた。それから身体を揺すり、肉の塊となってしまった右腕に血液を流していく。痺れるような痛みが走り、皮膚が粟立つ。
腕が感覚を取り戻していくと同時に、僕の思考も明瞭になっていった。
「………ええと」
確か僕は、家を出て…、この店に入って…。
「…………」
記憶を辿るのに夢中になったあまり、俯く。
その瞬間、こめかみの辺りから何かが落ちて、視界の端を横切った。
「わ……」
僕は声をあげ、無駄に驚く。
よく見ると、それは何の変哲も無い、ビニール製の黒いコードだった。
一瞬、イヤホンか? と思ったが、耳にそれっぽいものが装着されている感覚は無い。
恐る恐る、手を動かしてコードをなぞると、僕の指先はこめかみに触れた。
こめかみに、吸盤のようなものがくっついていて、そこからこいつが伸びているようだ。そして、そのコードが伸びた先を見ると、そこには、一昔前のウォークマンのような、黒い機械があった。
「なんだこれ…」
僕は恐る恐る手を伸ばし、機械に触れる。
手にとって初めて、その機械から、何かが突き出していることに気づいた。
大きさは五センチほどで、薄いフィルムが巻きつけられた雫型。一見、プラスチック製だが、触れてみると、吸い付くような重厚感があった。スケルトンのため、その下に緑色の基盤があることがわかる。
なんとなく、本当に、ただ何となく、僕はラメが煌めくそれを引っ張ってみた。
その瞬間、乾いた音とともに、そいつが黒い機械から抜ける。
ボディの先端には、USBメモリとは似ても似つかない、奇妙な端子がついていた。
「…………」
記憶媒体…だよな、これ。抜いても大丈夫だったのか?
一抹の不安に襲われたが、それから十秒、二十秒と経ったが、特に変わったことが起きることは無かった。
息を吐いた僕は、コードを掴み、引いた。ぴんっ…とコードが張り、微かな手ごたえがあった後、こめかみに張り付いていた吸盤が剥がれる。
蒸れた皮膚を掻いた後、落ちた吸盤、コード、謎の機械、そして、謎の記憶媒体を掴む。改めてそれを見ようとした、その時だった。
ガチャリ…と音を立て、部屋の扉が開いた。
僕は小さな悲鳴を上げ、その方を振り返る。
入ってきたのは、女性だった。
綺麗な人だ。背が高く、スーツ越しでもメリハリのある身体つきをしているのがわかる。目はぱっちりとしていて、肌は絹のようにきめ細やか。蛍光灯の光に照らされた髪は艶々とし、波の一瞬をとらえたかのようにパーマが掛かっていた。
年齢は…三〇代くらいだろうか? 僕の体温を上げるくらいの妖艶な雰囲気を、その女性は漂わせていた。
「目が覚めたのですね」
女性は僕を見るなり、にこりと笑った。
コツコツ…と、リノリウムの床を踏み鳴らして歩いてくると、僕が持っていた謎の機械をコードごと取り上げる。
機械を机の上に置いた女性は、それから、僕の膝に掛かった毛布を丁寧に取り払った。
前屈みになった時に、彼女の白い胸が見えたことは言うまでもない。
「どうですか? 気分の方は?」
僕の視線に気づいてかどうか、女性は屈んだまま、上目遣いに僕を見た。
「些細な事でもいいので、何か異常があったらおっしゃってくださいね」
「…………」
僕は答えない。決して、シャツの隙間から見えようとする女性の乳首に気を取られていたわけではなく、女性が言っていることがよくわからなかったからだ。
…こいつ、何を言っているんだ? って。
黙り込む僕に、女性は、おや…と言いたげな顔をした。
「大丈夫でしょうか?」
「………ああ、はい」
大丈夫ですか? だなんて漠然とした質問に、漠然とした答えを返すしかなかった。
すっかり痺れがとれた腕を動かし、後頭部を掻く。
「もう、おかげで、すっかり、よくなりました…」
「…………」
手探りで放った僕の言葉に、今度は、女性が沈黙する番だった。
畳みかけていた毛布をひじ掛けに掛けると、若干冷静さを欠いた様子で、僕の顔を覗き込む。
ふわりと、香水の匂いが鼻を掠め、くらくらとした。
「あの、本当に大丈夫でしょうか? 何か違和感は感じませんか?」
「え、ええ…」
真っ先に浮かんだのは、女性の日本語の使い方だったが、十中八九これではないだろう。
女性は、固まっている僕の肩を掴んだ。凄い力だった。
「本当に、違和感はございませんか? わずかでもいいのでおっしゃってください」
女性に見つめられ気恥ずかしくなった僕は、俯き、しどろもどろになりながら言った。
「ああ、いや、その…、違和感って、何のことですかね?」
「何のこと…って」
女性は構わず僕のことを見つめて言う。
「それはつまり、違和感はない…ということでしょうか?」
「いや、そうじゃない…」
女性が言うよりも先に、言葉を紡ぐ。
「例えば、今、僕は、自分がどこにいるのかわかっていない…。これを違和感って言うのか? それとも、僕はあなたのことを知らない…これが違和感か? そもそも、僕はどうして、こんなところに居るんだ? 全く覚えてないんだよ…。まるで、記憶喪失になったみたいだ…」
つまり、違和感が多すぎて、女性の言っている「違和感」が何を指しているのかわからない…ということだった。
言い切った僕は、恐る恐る視線を上げた。女性の顔は凍り付いていて、綺麗な顔が台無しだと思った。
「…いや、そんな、そんなまさか…」
そう、ぶつぶつ…と呟いた女性は、僕の肩から手を離した。
そして半歩下がり、その猫のような目で、傍にあったデスクトップパソコンを見た。
再び僕に視線を戻した彼女は、息を吸って…、吐いて、そして、言葉を放つ。
「あなたの名前は……」
だが言いかけて、女性の声は途切れた。彼女は口を半開きにしたまま、視線を少し上にやり固まっている。一秒、二秒、三秒…と、凍り付いたかのような沈黙が続いた。
永遠とも思える時間の後、女性は、何かに対して、観念したように肩を落とす。そして、少し震えた声で、僕に尋ねた。
「お客様、ご自分の名前は、わかりますか?」
「僕の、名前?」
一体何を言っているんだ? とは思ったが、まあそのくらい答えるのに大した労力はかからないだろう…と思い、僕もまた、女性の真似をして息を吸い込んだ。
そして、言う。
「僕の名前は、譛晄律螂亥?讓ケ…、ですけど」
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