第一章【拝啓 忘れられた僕へ】

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 名前占い…というものがあるだろう?  流派は様々だけど、基本的に自分の名前の画数を足して、天格、人格、地格、外格、そして総格を導き出し、自分の運勢がどんなものかを確かめるやつ。「あんなもの、ただのバーナム効果だ」なんて言う声があるのは百も承知だが、芸能人とかどこぞの社長とか、社会的に成功している人らの名前を占うと、大抵の場合は、悪い結果は出ることはない。  つまり、人の名前には「良い運勢」と「悪い運勢」が存在して、言い換えるならば、名前と人の運命には何か関係があるのだ。  名前と運命に関する研究が始まったのが、今から三十年前。研究の末判明したのは、「名前には、その人が送ってきた人生が記録される」ということである。  僕は学者じゃないし、知見を広めようと思うほど立派でもない。だから、詳しいことはよくわからないのだが、とにかく、「名前には人の人生が記録される」のである。  まあ、そう言われても、ぴんと来ないと思う。なんて例えればいいのだろう?  人の名前とはつまり「器」なのだ。色も形も手触りも容量も、それぞれ違う器。そして、その器に流し込む液体が、「人生」である。これにもまた、様々な形がある。綺麗な色の液体。汚い色の液体。さらさらとした液体に、どろっとした液体。熱いものから、冷たいものまで、ありとあらゆる液体が、常に器に流れ込み、溜まり、層を成しているのだ。  きっと良い名前というのは、綺麗な色と形をしていて、良い人生というのは、さらさらで、虹のような色をしているのだろう。  …いや、器だの液体だの、そんなまどろっこしいもので例えなくとも、名前がUSBメモリなどの「記憶媒体」。人生が「書き込まれたデータ」…という例えのほうが適切だったかもしれない。  とにかく、名前と人生が関連していることが判明して、名前を分析すれば、その人の過去がわかるようになったのだ。  その世紀の大発見、活用しようとするのが研究者の性である。  そうして開発されたのが、「名前に書き込まれた過去を改変する」という技術だ。  上手い例えが見つからないな…。  名前には人生が記録される。とは言え、記録されるのは、あくまで既に起こったこと。例えば、ある人がある日に「サッカーの地区大会で優勝した」ならば、その人の名前の一番新しい部分…器で言うと一番上の部分に、「サッカーの地区大会で優勝した」という液体が流れ込み溜まる。  お偉いさんが開発したのは、その記録された過去を書き換える…つまりは、器に溜まった一部の液体を抜き取って、また別の液体を流しこむ技術だ。記憶媒体で言うならば、書き込まれたデータを改ざんするのである。  そんな行為を、「過去改変」というのか? と思うだろう。  その疑問は、「人はどうやって人を認識しているのか?」ということを解明するとで晴れるだろう。  「佐藤明美」…という女性を知っているだろうか? 有名人だから、きっと知らない人はいないだろう。  N県威武火市の公立大学を卒業後、堂々咲製菓という有名企業に就職。三年で退職すると、そこでの出来事を元に小説を書いてデビュー。六年のうちに八つの長編作品を執筆し、そのどれもが映画化及びドラマ化された。デビュー七年目にして顔を公開したのだが、その美貌に世間は虜となり、時々、週刊誌のグラビアを公開するようになった、なかなか面白い人生を歩んでいる女性である。  彼女のことを知っている人ならば、「佐藤明美」という名前を聞いた途端、その後の説明を聞かずとも、その脳裏に、彼女の顔だとか、発表した小説の表紙だとか、ドラマのワンシーンが浮かんだことだろう。  佐藤明美のような有名人に限らず、知人の名前を思い浮かべて見るといい。それと同時に、きっと、その人がどんな顔をしているのか。どんな性格なのか、自分とはどんな関係を形成しているのか…が浮かんでくるはずだ。  そうだ。僕たちは、人の名前を目にした時、または聞いた時、どこからともなく沸き上がるまた別の情報と、その名前を関連付けている。つまり、「名前を認識する」ということは、「その人の人生の一部を読み込んでいる」ということなのだ。  例えば、「小学校の時に美化委員だった」という過去を書き換えて、「学級委員だった」にしたとする。そうすれば、その人は「学級委員だった」のである。  名前に保存された情報を改ざんして、認識を変更するのだ。  ここで注意すべきは、あくまで、「認識を変えるだけ」…ということだ。実際に学級委員になったわけではない。過去を書き換えたところでそこに立っているのは綺麗好きの人間だ。  そしてもう一つ注意すべきは、「認識」と「記憶」は別物である…ということだ。過去は「名前」に保存されて、記憶は「脳」に保存される…と言えばわかるのではないだろうか。いくら名前に書き込まれている過去を改ざんしたとしても、脳には正しい記憶が保存される。一時は名前から人を認識していたとしても、いずれは、脳の記憶との違和に気づき、破綻するのだ。「洗脳から目覚める」と表現してもいいかもしれない。  さらにもう一つ。  書き換えられるのは、「自分の過去」のみである。他人の過去は書き換えられない。そして、書き換えた後の情報を認識できるのは、自分の過去のみだ。  どういうことかと言えば、独りぼっちの人間が「自分には友達が多い」と書き込んで、社交的な人間になったとする。だが、周りから見れば、そいつは相変わらず「友達がいない奴」で、友達がいないくせに社交的な気持ちの悪い奴に映るのだ。  とどのつまり、「過去を書き換える」とは大それた言い方で、これは言うなれば、「洗脳を自分にかけている」ようなものなのだ。  ではどうして「過去改変」だなんて、大袈裟なことを言っているのか。それは、名前に書き込まれた過去を改変すると、その名前も変わってしまうからだ。これは洗脳というには少し違う現象だろう。  名前が変わる…とはどういうことか。  名前と記録された過去は表裏一体だ。運動音痴だとしても、才が無くとも、女性にぞんざいに扱われても、その出来事は、その人の名前たらしめる。もし運動神経抜群で、才があって、女性に言い寄られる人生だとしたら、それはその人の人生ではない。他の誰かの人生だ。別の名前の人間の人生だ。  ある有名人が、本名とは違う芸名を使って活動し始めたところヒットした…。なんてことがよくあるだろう? あれに似たようなものだと理解してくれればいい。  とまあ、過去を書き換える…という技術は、欠点だらけ、矛盾し放題であり、到底人類のためになるものではない。そう思うかもしれない。  だが、この技術は「過去改変サービス」という姿をして、この町の外れに店を構え、今日もひっそりと、訪れる客の過去を改変し、その名前を変化させている。  何度でも言うが、過去を変えるということはつまり、認識を変えるだけだ。その人がスーパースターになったとしても、現実は無常である。  そんな不胡散臭くて、不完全で、恥ずべき行為が、どうして店を構えるまでになり、需要が発生しているのだろうか?  何度でも、何度でも何度でも言おう。  過去を変えると言うことは、あくまで、「認識」を変えるだけである。  だがそれは時として、救済にもなる。いつも自分のことを卑下している人間が、過去の改変によって明るくなれたら? 嫌な過去を持ち、いつまで経っても克服できない人間が、その過去を忘れられたら? 仮初で良い。仮初でも、生きていけるのではないだろうか?  救われた者勝ち…というわけだ。身体に悪いとはわかりつつも、煙草を吸って幸福を得るようなものだろうか? それが紙や映像の中の女性の裸だとしても、発情して自慰による快感を得るようなものだろうか?  過程はどうでもいい。幸福を得られたらそれでいい。過去を書き換える…という技術は、そういう切迫した者たちに支えられ、水面下で根強い人気を誇っていた。  そして、つい最近に、僕もその店を利用した…というわけだ。
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