第一章【拝啓 忘れられた僕へ】

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 確か僕はあの店を訪れて、担当してくれた真崎さんに過去の改変をお願いした。  だというのに、目が覚めて以降、自分のことも、自分の名前も、この状況も、一切のことを覚えていないのは何故なのか…。  その理由が判明したのは、それから五時間後のことだった。 「大変、申し訳ございませんでした」  姓名変更師の真崎さんは、シャツのボタンをすべて止め、改まって僕に土下座をした。  きつく縛った後ろ髪。馬の尻尾のように前に垂れて、白いうなじが見えた。 「お客様に使用したビタースイートを確かめたところ、データの破損が確認されました…」  『ビタースイート』。かっこいい名前をしているけれど、要は記憶媒体。主に、過去改変を希望する人の名前を読み込み、改変後の過去を記録するために使われる。  その記憶媒体に保存されたデータが、破損していただと?  真崎さんは顔を上げると、手をついたまま言った。 「本来、出力機を通して、改変した過去をお客様の肉体に上書きするはずだったのですが…、何らかのトラブルが発生して、ビタースイートに保存されたデータの殆どが消滅してしまっていたようで…」 「消滅…、それで?」  続きを促すと、真崎さんは頷く息を吸い込み、言った。 「破損したデータを出力してしまったために、お客様の肉体に、『無』が書き込まれたようなのです…」 「無が、書き込まれた…?」  意味が分からない…、というよりも、いまいちぴんと来ない。  真崎さん自身もあまり理解できていないのか、彼女は言葉を選びながら言った。 「はっきりしたことはお伝えにくいのですが…、今のお客様は、『名前が無い』状態にあるようです…」 「名前が、ない…」  さっきから僕は、真崎さんが言うことを反復する人形となりつつあった。 「名前が無いって、どういうことだよ」 「あの…、お財布の中に、保険証か、運転免許証はございますか…」 「え…」  そう言われて、僕は反射的に、ジーパンのポケットに触れていた。  取り出したのは、折り畳み式の財布。開けて探して見ると、あった、保険証。 「ああ、そうだよ…」  名前がわからなくなったって、こいつを確認すればいいんだよ。  僕は鼻で笑いながら保険証を取り出した。だが、保険証の左上にある名前を確認した瞬間、眉を潜める。  真崎さんが立ちあがり、僕の肩越しに保険証を覗き込んだ。 「ああ、やっぱり」  真崎さんはそう洩らしたが、やはり僕には、何が起こっているのかわからなかった。 「名前が、認識できなくなっていますね」  保険証に書かれていた名前…。それは、「譛晄律螂亥、乗ィケ」…と意味のわからないものだった。実際にそう印刷されているわけではなく、じっと見つめていると、「×××××」、「○○〇〇〇」…と変化する。どうやら、僕たちの目に問題があるようだった。  認識、できない。 「調べてみたところ、お客様に本来書き込むはずだった過去の八十五パーセントが破損しておりました。厳密に言うと違いますが…、あなたの過去の八十五パーセントは『無』になったわけです。起こらなかった…ということです。起こらなかった…ということは、存在しなかった…ということです」 「存在しなかった…ということは、名前も付けられない…ってわけか」  理解した僕は、真崎さんの言葉を遮って頷いた。 「だから、こうやって保険証を確認しても、認識できないわけだ。つまり、今の僕には、名前が無い…。ゲームのバグみたいな存在になったってわけか」  まだぴんと来ていない部分はあったが、大体のことはわかった。  僕たちは、名前に記録された過去から自己を認識する。名前に何も記録されていないから、いや、名前が無いから、こうやって記憶喪失みたいな状態になっているのだ。  僕は頬を掻き、真崎さんを見た。 「それで、僕はどうすればいい? ビタースイートを作成したのはあんただ。あんたの失敗だ。責めるつもりは無いが、失敗したことへの責任は取ってもらわないと」 「…はい、それはもちろん」  真崎さんは深々と頭を下げる。 「必ず、何とかして見せます」  そういう抽象的な言葉は嫌いだよ。 「消えてしまった名前と過去の復元はできるのか?」 「ええ、それはおそらく可能です」  真崎さんの言葉に、僕の心臓の熱が一度あがるような気がした。 「…そうか、よかった、できるのか…」 「ですが、申し上げにくいのですが…」  その言葉に、僕の心臓の熱が二度下がるような気がした。 「データの破損なんて滅多に起こることじゃなく…、いや、初めて起こったことでして…」 「おい…」  じゃあなんで今、「おそらく可能です」って言おうとしたんだ? というツッコミが出かかる。 「原理はわかっているので、復元は可能です」  僕の口から放たれんとする言葉を察知してか、女性は捲し立てた。 「ですが、復元をするには、莫大な時間とそれ相応の技術が必要です。私は姓名変更師の資格は持っておりますが、今回のこの状況、胸を張ってお客様の消えてしまったデータを復元する自信があるとは言えません…」  なるほど、技術の問題か。 「理論上は可能だけど、それを実際にやるのは現実的じゃないと」  そう理解した僕は、顎に手をやり、考えた後に顔を上げた。 「じゃあ、どうする?」 「私の知り合いに、個人でやっている姓名判断師がおります」  そう言った真崎さんは、海から上がったかのように息を吸い込んだ。 「彼女に頼もうと考えております」 「個人…? なんだ、過去改変サービスって、あの店に限らずできるのか…」  真崎さんは頷いた。 「もともとはうちで働いていた者なのですが、三年前に独立しました。素晴らしい技術の持ち主でして、彼女が制作したビタースイートは、多くのお客様から高い評価を得ています。彼女の腕なら、おそらく、お客様の過去を復元できるのではないか…と」  真崎さんは「おそらく」と言った。断言しなかった。  だから僕も、ぬか喜びはしない。 「手配、してるの?」 「もちろんです。話は通しているので、お客様がよろしいのであれば、すぐにでも派遣します」 「わかった、じゃあ、それで頼むよ」  己の尻を拭えないのはプロとしていかがなものか…と思いつつも、他の人に頼らなければ復元できないのなら仕方がない。僕は頷いた。 「僕の名前と、過去が元に戻ることを、祈っておくよ」  そうして、僕のもとに、過去の復元が可能な姓名変更師が派遣されることとなった。  そうして、その日は帰ることとなったわけだが、真崎さんは、「お詫びです」と言って、五万円の入った封筒と、五種の香りが楽しめるアロマセット、それから、東京の高級菓子の箱を僕に渡した。  お詫びの品を受け取っても、真崎さんは何度も何度も謝り続けた。  居心地が悪くなって、僕は直ぐに店を出た。そこは、大通りに面したマンションの三階で、通路は夕暮れの赤い光に満たされていた。向かいでは、車が騒々しく行き交っている。  はあ…と吐いた息が白い。恥ずかしい話、僕はこの瞬間、今が冬であることを思い出した。 「下まで送ります」  真崎さんが出て来て、扉の方を手で指した。  二人で一緒に階段を降り、歩道に出る。途端に容赦ない冬の風が吹いてきて、僕の頬を引っ掻いた。  真崎さんの髪が、風で揺れる。 「本当に申し訳ございませんでした。話がつき次第、お客様のお家に派遣しますので…、大体、三日後にはなると思います」 「わかった。頼むよ」  それしか言うことができなかった。  それじゃあ…。そう言って、僕は歩き出す。振り返ってもまだ、彼女は頭を下げ続けていた。  僕は小さなため息をつき、前を向き直る。  夕日を浴びながら歩いていると、なんだか、頬がむず痒くなった。  僕は、何のためらいもなく皮膚に爪を立てて、ぽりぽりと掻く。すると、今度は日焼けをした後のような、ひりひりとした感覚が宿った。  何かのアレルギー反応だろうか? 過去が消えた後だから、細かな事象にさえ不安を抱いてしまう。 「……いやいや」  僕は首を横に振った。 「まあ、大丈夫だろ」  不安になったって息苦しいだけだ。楽観的に考えるのがいい。きっと大丈夫。消えてしまった僕の過去は、ちゃんと元に戻る…。  そう思った僕は、歩きながら、もらったばかりの箱を開けた。中に入っていたのは、バター香るラングドシャ。 「うん、美味い」  独り言をつぶやきながら、さくさくと齧る。  とろけるような甘みとか、鼻から脳天を貫くまろやかな香りを楽しんでいる間にも、僕の心臓の中には、ガラス片のような不安が残っていて、脈動するたびに、ちくりとした痛みを宿す。それでも、もう仕方がないことだと割り切って歩を進めた。  その後、自分の家がわからなくなった僕は、再び真崎さんの世話になるのだった。
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