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「嘘だろ?」
足元がぐにゃりと歪むような感覚。膝から崩れ落ちた瞬間、皆月はため息交じりに言った。
「半分嘘」
「は?」
苛立ちの籠った視線を皆月に向けると、彼女は鼻で笑い、肩を竦めた。
「直らないって言えたら、どれほど楽だっただろうね」
「どういうことだ?」
「それを今から説明する」
皆月舞子は足元にあった鞄を引き寄せると、金具に触れ、開けた。中から取り出したのは、黒色のノートパソコン。机の上にあった小説を端に追いやって置くと、開いて起動した。
黒い画面に浮かぶ、「now roading」の文字。それを横目に、皆月は言った。
「真崎さんにも言われたでしょう? 直ることには直るけど、かなり難しいって」
「ああ、うん、言われた」
そして、真崎さんじゃ直すのが難しいから、君にお鉢が回ってきたと…。
丁度その時、心地よい音と共に皆月舞子のパソコンが起動し、取っ散らかったデスクトップが表示された。
彼女は小さなため息を吐くと、タッチパッドに触れる。
「真崎さんから送られてきたビタースイートを確かめたんだけど、もう酷いのなんの。九十五パーセントもの過去が破損してたわけよ」
「九十五パーセント…?」
でもあの人、八十五パーセントって…。
僕が何を考えているのか悟ったように、彼女は鼻で笑った。
「昔から、無能なくせに見栄張る人だったからね、いつかこういう失敗があると思ってたけど、まさか本当に起こるとは…。まあ、美人さんだから、いざとなれば客と寝ればいいっていうのが羨ましいね…」
頬杖を突き、息を吐くように侮蔑の言葉を口にする。
「まあとにかく、あんたの過去の、約九十五パーセントが破損してたわけ。しかも、バックアップはとっていないときた…」
「バックアップ?」
初めて聞く言葉に、僕は声を裏返した。
「ビタースイートって、バックアップとれるの?」
「とれる。というか、取るのが基本。だってそうでしょう? こういうことがあっても、バックアップを取っておけば、そっちの方を出力すれば解決するじゃん」
ああ、確かに…。
僕の顔を見て、皆月舞子は、面白そうに笑った。
「もしかして、初耳?」
「初めて聞いた」
「うわあ、説明不足」
顔を顰める。
「どうせ、手間と予算ケチってそうしなかったんだろうね」
「そんなに金掛かるのか?」
「そりゃそうよ。だって、ビタースイートは、人の皮膚に押し当てるだけで、その肉体に付けられた名前を読み込む画期的な機械なんだから…」
天井を仰いで言った皆月は、薄い唇に指を当て、にやりと笑った。
「そのお値段は、秘密」
それから、背もたれに体重を預けた。
「バックアップは取ってないと来た…。まあ、データの破損なんて今まで起こったことが無いからねえ、気持ちはわからんでもない」
「それで? どうするんだよ」
バックアップを取っていないことを今更嘆いても仕方がなかった。
「別のやり方があるんだろう? バックアップが無くたって、僕の過去を復元する方法が」
皆月舞子は僕の方を見ると、露骨に顔を顰めて言った。
「もう作り直すしかない」
「作り直す? どういうことだ?」
「そのままの通りよ。理解できないわけ?」
皆月舞子は語気を強めると、肩を竦める。
「いい? あんたの名前には、あんたの過去が保存されていた。それはバックアップを取っていない限り唯一無二だ。それが消えたの。あんたの過去はもうこの世には存在しない。どこにも、無い…」
そして、こう言い切った。
「つまりもう、似たものを作るしかない」
「似たものを…?」
彼女が言わんとしていることは理解できた。だが、ぴんと来ず、僕は言葉をなぞった。
皆月はさらに噛み砕いて説明をした。
「消えてしまった過去を、一から書き直すの。あんたが生まれた日、あんたが通っていた幼稚園とか、小学校とかの出来事…。クリスマスの日はどんなことをしただとか、親とはどんな関係を築いていたのか? だとか…。そうやって作った、元の情報に限りなく近い過去を、もう一度あんたの肉体に書き込むの。そうすれば、あんたは名前を取り戻せる」
なるほど…。
「そんなのでいいのか?」
すると皆月舞子は、頬を少し膨らませた。
「例えば、源氏物語の原本はもう存在しないでしょう? 今、世に伝わっているのは全部写本。でも、私たちは『源氏物語』というお話を知ることが出来る…。まあ、専門家に言わせたら、違うらしいけど…」
それから、皆月舞子はこうも続けた。
「大阪城だって、きっと昔の姿を忠実に再現しているんだろうけど、再建されたものでしょう? 実際の大阪城がどんなだったかは誰も知らない…。でも、今日もあそこに建っている城は、豊臣秀吉が建築した立派なお城だ。いやまあ、エレベーターがあるのはいかがなものかと思うけど」
とにかく! と言って、スカートの裾から覗く太ももを叩いた。
「私が今からやらなければならないのはそう言うことなの。あんたの過去を、一から書き直す」
「ああ、なるほど…」
僕は頷き、俯いた。
消えてしまった過去を、完全に復元することは不可能。だから、極力消えてしまう前の形に近づくようにしながら書き直す…。
「まあ、なんとなく理解できたよ」
要するに、写本を作るってわけだ。
「でも、どうやって? 原本は残っていないのに…」
胸に浮かんだ疑問を皆月舞子にぶつけると、彼女はまた顔を顰めた。
「あんた、ほんと鈍いね」
「いや、それは…、過去が消えているから…」
「脳がダメなのね」
僕の言い訳を一蹴した後、答えてくれる。
「確かに、『記録された過去』は消えたけど、『痕跡』は消えたわけじゃないからね」
「…なるほど」
わかっていないのに頷く。当然皆月舞子にはお見通しのようで、彼女は僕を睨んだ。
「このサービスは『過去改変』なんて謳っているけど、実際に改変されるのは、自分の認識だけ。例えば、『貧乏な家に生まれた』って過去を、『裕福な家に生まれた』ってものに書き換えたところで、その過去を認識できるのは本人のみ。周りから見れば、そいつは相変わらず貧乏性で、実際に金持ちになっているわけでもない…」
「ああ、『痕跡』ってそう言う…」
僕の横槍に嫌な顔をしつつ、皆月は頷いた。
「あんたは今、自分の名前と、過去を認識することが出来なくなっているだけ。でも、あんたがこの世界で生きた痕跡はちゃんとこの世に残ってるの」
そう言うと、彼女は、とんとん…と床を足で叩いた。
「このアパートだって、あんたが借りたんでしょう?」
「ああ、うん」
「これも、痕跡だ。あんたが生きた痕跡だよ。だからね、過去を復元するべく、私とあんたがやらなくちゃいけないのは、あんたに関連するものに片っ端から当たっていって、あんたがどんな人間なのか? どんな人生を送ってきたのか? と探ることだよ」
「うーん…」
お金持ちになったことになっているが、実際にお金持ちになっているわけじゃない。
存在が消滅したということになっているが、実際に消滅したわけじゃない。
わかるようでわからない、漠然とした話に、僕の脳は沸騰しつつあった。
黙りこくっていると、皆月が言った。
「そうやって駆けずり回っていたら、そのうち思い出すと思うよ」
「え…」
顔を上げると、彼女は僕の方を見ながら、己のこめかみをとんとん…と叩いた。
「再三言うけど、人が自己を認識するときは、己の名前に保存された過去を読み込んでいるの。でも、その過去が消えてしまったから、あんたは自己を認識することが出来ていない…」
皆月舞子は首を横に振った。
「でもね、これは記憶喪失とはまた違うよ。あくまで自己の認識ができないないだけ。記憶はちゃんと、あんたの脳に保存されている…。きっと、自分の過去について調べていたら、そのうち脳に保存された記憶の方で自己を認識できるようになるから…」
「…………」
やはり、何を言っているのかわからなかった。
「そ、そうか…」
だが、皆月舞子の機嫌を損ねるのが嫌で、わかった風を装う。
彼女は「嘘つくな」と言って、僕の脛を蹴った。
「要するに、今やるべきは、自分探し。その繰り返し。そうすれば、いつかは、あんたは自分の名前と過去を取り戻す」
「ああ、うん」
「わかった? 私の話」
皆月はそう言って首を傾げた。
僕はぎこちなく頷く。
「なんとなくはわかった。つまり、僕と関係のあるものを片っ端から探って、僕の過去を忠実に再現し、書き直すってことだろう」
皆月舞子は頷かなかった。構わず、僕は聞いた。
「それで、その復元作業を続けたとして、どのくらいで完成するんだ?」
「そうだね…」
皆月は顎に手をやると、天井を仰いで考えた。
ちらっと、黒い目が僕を見る。
「大体、三年くらいかな?」
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