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クロギは言葉を実に巧みに使いこなす事ができた。
山での暮らしは丁度三十と五年を数えたが、その間、欠かす事なく夜毎サクマに物語を聞かせ続けた。
クロギは美しい言葉で、世界中の美しい景色や美味しい食べ物、不思議な伝説、時には恐ろしい怪物の話を、色鮮やかに、五感に訴えかけるかの如く細やかに語って聞かせた。
サクマの方でもまた感受性が豊かであるのだから、この物語を大変喜んで聞き、クロギの思う以上に細やかなる事柄を、その物語から感じ取る事ができたのだ。
クロギはサクマに『男』という言葉も『女』という言葉も教えなかった。必要ないと思っていた。
だから彼らは『男』『女』という間柄ではなかった。
かと言って、兄弟姉妹や親子、肉親と言うような関係でもなかった。
何時迄もサクマはサクマであり、クロギはグロギだった。
やがて時が流れ、それでも未だサクマはサクマでありクロギはクロギであったのだが、互いに年老いてはいた。
クロギは長い間『ここ』と決めていた時に、『これ』と決めていた物語をサクマに語って聞かせた。
それは『言葉を失う時』の話でもあったし、それから後の物語でもあった。
「クロギはいつか言葉を失うのか? 」
不安気な顔でサクマがクロギを覗き込む。
「そうよ、だけどそれだけの事だ。クロギは何時迄もサクマの側にいる。新しい言葉は生まれないけれど、古い言葉はサクマの元に留まるだろう? 」
「クロギが言葉を失ったら、今度は吾の番だ。吾がクロギに物語を聞かせる。大丈夫、安心しろ。言葉はなくならない」
そしてクロギは、もしもその時が来たら、自らを樗の木の下に埋めるように言った。
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