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「不動家の結婚式、また延びたんですって」
「またか? たしか三カ月前にも延期したと聞いた気がするが」
「二カ月先延ばししたって聞いたわ」
「今回で延期は三度目だろう?」
囁く声に慌てて俯いた。当事者だと気づかれないように顔を隠しながら、目立たない程度の急ぎ足で人々の間をすり抜ける。
(やっぱり来るんじゃなかった)
今回のパーティは華族が多く集まる上流階級のパーティだ。いわゆる社交場というもので、そういう場所で話題になるのは決まって注目株のαやΩの婚約と結婚話だった。わかっているからこそ来たくなかった。それでも「結婚を先延ばしにしてやったんだから少しは家の役に立ってこい」と父に命じられて来ざるを得なくなった。
(役に立ってこいなんて……)
僕が参加したところで家の役に立つことは何もない。そのことは父もよくわかっている。それでも行けと命じるのは、不動家の許嫁という立場で我が家を売り込んでこいということなのだろう。
(そんなこと、もっとできるはずがないのに)
何度も結婚を先延ばしにしている身で「僕が不動家の許嫁です」なんて言えるはずがなかった。もしそんなことを口にすれば、ますます成り上がりの新華族のくせにと嫌味を言われるだろう。それでもこうして会場にいるのは、昔から父に逆らうことができないからだ。
(やっぱり帰ろう)
いても仕方がない。小一時間はいたのだから、一応パーティに参加したという言い訳はできる。
「新華族のΩなんて、金か見た目しか使い道ないだろう」
「あとは体の具合がいいかくらいだな」
「あら、そこまで言ってはかわいそうよ」
聞こえて来た言葉に唇を噛み締め、急ぎ足で会場を後にした。
十三歳でΩだと判明した僕は、家のために役に立てと言われ続けてきた。両親ともにαで兄二人もαという、αばかりの家に突然Ωが生まれれば大抵はこうなる。せめて両親の片方がΩだったら少しは違っていたのかもしれないけれど、“αの言うことがすべて”と考える家族にとって僕はお荷物でしかなかった。
そんな僕に一年前、婚約者ができた。不動家という由緒正しい華族の家柄で、相手は十九歳の僕より七歳年上のαだった。ただのお荷物だった僕に、高貴なαと結婚するという未来が用意された。
最初は気が進まなかった。不動家からすれば格下の家柄との婚約話はおもしろくないはずで、きっと相手のαも渋々承知しただけに違いない。そんな相手と結婚してもうまくいくはずがないことはわかっている。生家と同じように肩身の狭い未来しかないのだと思うだけで気が重くなった。
(そう思っていたのに、あの人は違った)
初めて顔を合わせた日、あの人は「よろしくね」と言って優しく微笑みかけてくれた。
「不動康孝です。結婚式の日取りまで先に決めてしまったけど、少し性急すぎたかな。準備する時間が必要なら延ばすこともできるから、遠慮なく言ってくれてかまわないよ。わたしとしては、このままの日程が嬉しいんだけど……どうかしたかい?」
「え……?」
「いや、心ここにあらずといった感じだから」
にこりと微笑まれてハッとした。慌てて「も、申し訳ありません」と頭を下げる。
「大変失礼しました。鳴宮珠希と申します。僕、わ、わたしのほうこそ、よろしくお願いいたします」
まさか声が聞こえないくらい見とれてしまうとは思わなかった。
(この人が、不動康孝さん)
不動家は美男美女の兄弟だと社交場ではいつも話題に上っていた。長男長女はすでに結婚していて、パーティで耳にするのは次男の康孝さんの話がほとんどだ。康孝さんの下には欧州に留学中の妹と高校生の弟がいるらしく、最近ではそちらの話もよく耳にする。
(噂で聞いていたよりずっと素敵な人だ)
窺うようにチラッと視線を上げる。そんな僕の様子に気づいたのか、康孝さんがニコッと微笑んでくれた。それだけで僕の心臓はドクンと飛び跳ねた。
「こちらこそ、どうぞよろしく」
「あの、ふ、ふつつか者ですが、ご迷惑をおかけしないようにしますので、お、お導きのほど、よ、よろしくお願いいたします」
視線を落としながら、慌てて言葉を紡ぐ。
(……あれ?)
康孝さんからの反応がない。急に静かになったからか、少し離れたところで僕の両親と康孝さんのご両親が話している声が聞こえてきた。
もしかして何かおかしなことでも言ってしまったのだろうか。途端に不安になり、体の前で組んでいた両手に力が入る。
「はは、はははっ。そうきたか」
「……っ」
やはり何か失敗したのだ。僕は顔が真っ赤になるのがわかった。
「あぁ、笑ったりしてごめん」
「……いえ」
覗き込む康孝さんに気づき、少しだけ顔を逸らす。
「どうか気を悪くしないでほしい。まるで結婚式のときのような言葉だったから、嬉しくてつい。こちらこそ、末永くよろしくお願いします」
顔どころか耳や首まで赤くなった。初めての顔合わせなのに完全に失敗してしまった。きっと教養のないΩだと思われたに違いない。恥ずかしくてますます顔を上げることができなくなる。
「からかっているわけじゃないよ。本当に嬉しくて……ごめんね。どうやら自分で思っていたより舞い上がっているみたいだ」
「え……?」
「きみの婚約者になれてよかったと心から思っている」
そっと顔を上げると優しい笑顔があった。
「そうだ、堅苦しい言葉遣いはやめにしよう。こうして婚約者になったわけだし、他人行儀な会話のままじゃ寂しいからね」
「は、はい」
「それから、僕のままでいいよ」
「え?」
「無理にわたしと言わなくていいから。あぁ、わたしは子どものときからこれだから気にしないで」
「は、はい」
「そう緊張しないで。さ、お茶をいただこう」
そう言って腰に回された康孝さんの手にドキッとし、同時に胸が甘く痺れるのを感じた。
僕はあの日、康孝さんに恋をした。いまもずっと恋をしている。気が重くて仕方がなかったのが嘘のように、康孝さんのことを考えるだけで胸がときめいた。生まれて初めてΩでよかったとさえ思った。家のために誰かと結婚するのが嫌で仕方がなかったのに、そんな気持ちは一瞬で吹き飛んだ。この人となら、いや、この人と結婚したいと心の底から思った。
(でも、そう思っていたのは僕だけだったんだ)
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