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僕は彼に出会う前から彼のことを知っていた。花蓮がよく透華の話をしていたからだ。それはとても珍しいことだった。
彼女は友人の話をしない。学校の話もしない。家にいる時はひたすら趣味や他愛もない話ばかり。彼女はいつも、その場を明るくしてしまうほどの眩しい笑顔で笑い、日々楽しそうに振る舞うけれど、僕はそれだけが真実では無いことを知っていた。彼女はつまらないことと学校が嫌いだった。友達を思い出すと付随して学校を思い出すという理由で友人の話をしなかった。友人から連絡がくるとあからさまに面倒くさがってスマホを投げ捨てるのなんかは呆れてしまった。
そんな彼女が珍しく友人の話をし始めたときのことは記憶に残っている。聞いたところによると、学校の友人ではないことは確かだった。そして、花蓮の好みの顔つきで、とても綺麗な人だという。花蓮は美しいものが好きだった。特に青い空がお気に入りでよく見上げていた。彼女はその友人の仕草や性格、配慮について多く語った。細かなことを嬉々として語っては、いつも最後に綺麗だと言った。僕はその度にそんなに褒めるほどかと疑問を抱いていたけれど、透華を前にしたらいつの間にか疑問は消えていった。
彼は確かに綺麗な人だった。背筋が伸びていて、歩き方が美しい。指通りの良さそうな黒髪を耳にかける仕草には思わず見とれてしまった。指先まで流れるような動きをみて、この言葉が合っているのかわからないけれど、上品でおしとやかな人だと思った。嬉しい時に俯き気味に控えめに笑う顔が素敵だと思った。本当に細かいことだ。でも目につく全てが彼の印象を良くさせた。
「花蓮が亡くなったことは、悲しくないわけないし、……こう言ったら語弊があるかもしれないけど、………清々しくも思うんだ。」
自由を愛する人だった。"可憐"とはかけ離れた人で、大雑把だったし、全ての人との関わりを大事にしているようで実はどうでもいいと思っている。自分が生きたいように生きているように見えた。彼女は自由だった。少なくともずっと隣にいた僕にはそう見えた。でも彼女はいつも何かに囚われているみたいに少し息苦しそうにしていた。花蓮自身が信じれば、花蓮はほとんど何でもできたし、何にでもなれた。それでも彼女が苦しんでいるのだとわかったときは衝撃を受けた。
『ねえ、陽真。私、寝る前になると必ず思うの。このまま眠るみたいに死ねたらいいのに、明日なんか来なきゃいいのにって。でもね、お父さんやお母さん、陽真のことを思うと絶対生きてやるんだって思う。それでももし、私が先に死んじゃったらさ……、みんなに笑ってて欲しいな。だって私はたぶん笑ってるから。やっと願いが叶ったって。もちろん家族に申し訳なくは思うんだけどね、でもやっぱり嬉しさが勝っちゃうと思うんだよ』
そう言ってあの日の彼女は笑う。僕は呆気にとられてしまって何も言えなかった。暗くて普段は触れないようなところをあけすけに話す彼女を見て、そうだった、彼女はこういう人だったと思う。これを自由と言わずして、何を自由と言うのだろうか。
「やっと自由になれたんだなって、きっと笑っているんだろうなって、そう思えるから……僕は生きていける」
「陽真さん……、堪えすぎていませんか」
陽真は半ば決意や宣言するためのように声に出した。そこに透華の声が優しく響く。
「え……」
「陽真さんが泣かないから、心配だったんです。悲しいのに泣けないと、どんどん苦しくなるから。」
人と目を合わせるのが苦手なはずなのに、透華はしっかりと陽真の目を見て言った。透華は本当に透き通るほど綺麗で芯の強い人だった。その芯の強い瞳に見つめられると、自信なんかなくなってしまう。陽真の方から視線を外すことはきっとこれが初めてだっただろう。
「悲しい、のか……わからないんだ。悲しむべきなのかわからない。」
陽真は頭で考えるより口に出した。ポツリと呟くように、口を動かす。今にも消えてしまいそうなろうそくの火みたいな、か細い声だった。透華は聞き逃さないように耳を傾ける。透華からすれば陽真の心が傷んでいることは一目瞭然だった。
「悲しいんですよ。大切な人が居なくなったんだから。寂しくて、辛いんですよ。だから泣いてもいいんです。カレンさんが自由を望んでいたとしても、また会いたいと願っていいんです…」
透華の声はだんだんと震えが強くなっていった。それに気づいた陽真が透華の顔を覗くと、静かに涙を流していた。同時に自分の頬にも一筋の涙が流れる。あたたかい涙だった。むず痒さを感じて今にも拭ってしまいたかったが、とても大事なもののように思えて、できなかった。
「花蓮に会いたいッ、…会いたいよ、っ」
「俺も、会いたいです……」
◾︎◾︎◾︎
「ありがとう、透華。なんだかすっきりした気がするよ。」
「いえ、俺の方こそありがとうこざいます。陽真さんと……出会えてよかった、です」
「えっ、……」
陽真は透華の顔をまじまじと見たが、透華は照れた様子もなくただ笑っていた。照れているのは陽真だけだった。きっと深い意味など込められていない。純粋にそう思ったから口にしたのだろう。この言葉を都合よく受け取って良いだろうかと考えるが、都合よく受け取ったところで彼に正しい意味に訂正されるだけだろう。それだと結果的に僕が傷つくことになる。
「僕も透華に出会えてよかったよ」
透華は笑った。ただ穏やかに、優しく、静かに、今にも消えてしまいそうなほど儚く。窓から吹き込む風に髪がなびいて、暖かな表情をしているのに、存在が感じられないような冷たさを見た気がした。風と共に消えてしまったらどうしよう。そんな考えが頭の中を埋めつくした。
「わっ、ど、どうしたんですか?」
透華がどこかへ消えてしまう気がした。愛するものを無くす悲しみは十分に思い知った。もう、十分わかったから、だからこれ以上僕から取り上げようとしないで。そう願った。そう願うと同時に、透華を引き止めたくて、気づけば抱きしめていた。透華が驚いて身動きが取れなくなっているのは逆に都合が良い。そのままずっと手の届く所にいてくれたらそれでいい。
「居なくならないで、ずっとここに居て」
「っ、……いますよ、ずっといますから……」
透華が困った顔で陽真を見る。困っていることなんかわかっていたし、透華がそれをアピールしていることもわかっていたけれど、それでも譲れなかった。もっと僕で困ればいい。僕のことで頭が埋め尽くされて、他のことなんか考えられなくなればいい。
「ずっとって、いつまで?」
「えと、陽真さんが望むときまで?」
「そんなの…ずっと望んじゃったら、どうする?」
「そしたら、ずっとここに居ないといけないですね」
透華は困りながらも軽く笑いながらそう言った。たぶん本気にされていないんだろうか。きっと人が苦手なはずなのに、こんなに近づいても何も感じないのだろうか。曖昧な言葉だけじゃなんの効力もない。もっと明確で的確な言葉じゃないといけなかった。
「一生って言っても」
……見放さないでくれる?
透華はいつも煮え切らない返事をしたけれど、陽真は押せば落ちてくれると思っていた。そんなふうに考える陽真が意外と腹黒であるとかは、透華にさえバレなければなんでもいいのだ。陽真は存外適当な性格だった。
「……いいですよ」
「…………え?」
一生と言った途端狼狽えた透華だったが、予想外の良い返事に間抜けた声が出た。
「ほんとにいいの?」
「…はい。」
「ほんとのほんと?」
「何度も聞かないでください。考えすぎるといつの間にかやらない理由を探してしまうので」
「っだめだよ!もういいって言ったでしょ?約束だよ」
「はい。でも約束したら陽真さんが俺の事嫌になっても離れられないですね」
「僕はならないよ。絶対にね。」
「…そうだといいんですけど」
◾︎◾︎◾︎
トラウマって大それた事だけだろうか。悲劇って並外れた事件だけだろうか。俺はそうではないんじゃないかと思うのだ。それらは心に深く根付いたものであり、忘れたくても忘れられなかったり、忘れていてもふとした瞬間に思い出してしまうようなものじゃないかと思うのだ。例え誰かに相談するような客観的には大変じゃないことも、自分にとっては辛い場合もあるだろう。打ち明けられないまま、自分の中をぐるぐると回る感覚は誰にとっても快いものではなくて、異物は異物のまま残り続ける。誰かに言ったって理解してもらえないとか、誰かに言ったって解決しないとか、言えない理由は難しいものじゃない。でも打ち明けることは難しい。言えないのは苦しいし、どうにかしたいし、わかってもらいたいし、できるならば察して欲しい。そんな都合のいいことがないってわかっているからこそ、諦めながらも願ってしまうのだろうけど。じゃあやっぱり自分でどうにかするしかない。それでもどうすることもできないのはなぜか。どうすることもできないとわかっているのに、どうにかしたくなるのはなぜか。後者は簡単か。どうにもできないと悩むことより現状に耐えることの方が苦しいからだ。じゃあ前者はどうだろう。自分1人でどうすることもできないのは何故か。そこには恐怖があると思う。1人では抱えきれないほどの重圧があって、自分の口から打ち明けたその後を考えると押し潰されそうになるのだ。そうならない為に行動しないという選択を取るのだろう。しかし、前に進むためにはやはり何かしらの行動を起こさなければならない。必要なのは行動を起こすための勇気だ。俺にとってはそれが陽真さんだった。彼がいたから前に進めた。彼がいたから内に秘めた気持ちを少しずつ出すことができた。1人じゃ耐えられないことを陽真さんも一緒に抱えてくれたのだ。
今日も俺は花束を持って歩く。あの人のために、あの人が好きだった花を抱えて、最後に会った踏切へ向かう。太陽みたいな向日葵を抱えて、隣にはあの人によく似た彼が立っている。
「そうそう。それでね、カレンが楽しそうに君の話をしていたのを思い出すよ。本当に楽しそうに話すから、まるで恋でもしてるのかと思ったよ」
「え、カレンさんが、ですか?」
思い出し笑いをしている陽真を見て透華は驚く。まるで予想もしていなかったことだからだ。しかし次の瞬間には頬を染めて、耳まで真っ赤になっていた。なぜなら、誰かから好意をストレートに伝えられた経験が少ないのだ。向日葵を抱える手もふわふわとおぼつかなくなった。そんな透華をみた陽真はボソッと言わなきゃ良かった、と言った。もちろん別のことに頭を働かせていた透華には聞こえていない。
「酷いな…」
陽真の独り言にしては大きな声にハッとさせられて、ちらりと陽真の方を見る。不貞腐れたような表情をしていた。瞳がパチッと合う。間髪なく手が透華の頬に添えられた。陽真の手は冷たく感じて、やっと自分の顔に熱が籠っていることを自覚する。
「ぅ、あの……何ですか?」
「今は僕といるのにカレンのこと考えながら顔を赤くするなんて、……酷いよ」
「えっ……」
わざとらしく唇を尖らせた陽真さんが可愛らしく思えた。陽真さんも嫉妬することがあるのだと知れば、その対象が自分であることに喜びを覚える。しかも、カレンさん相手に嫉妬するのか。なんだか、子どもっぽく思えて笑いそうになった。
「双子だから好みも似てるんだ。わかるでしょ?」
「え、ちょっ、…陽真さん!ふッ、ぁ」
「ん?」
自分の発言を無理やり正当化しながら、陽真は透華に迫る。透華の顔の輪郭を指でなぞりながら、流れるように耳に触れる。その手つきがとにかく普通ではなくて、くすぐったさを通り越した何かを感じ取ってしまいそうだった。それに少し反応してしまうと陽真は面白そうにケラケラと笑った。
「今はッ、カレンさんにっ、会いに行きましょ!」
カレンさん、俺はきっと陽真さんを守ってみせます。
思い出に縋るのは今が苦しいからだと思ってた。まさかこんなに、清々しい気分で貴方を思い出せるとは思わなかった。俺は青い空を見上げながら口元を緩ませる。きっとあの日の空に微笑んでいた貴方も、こんな気分だったのだろう。
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