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太陽のひと
今日も俺は花束を持って歩く。あの人のために、あの人が好きだった花を抱えて、最後に会った踏切へ向かう。腕の中にある太陽のような向日葵を見つめた。向日葵は夏の日差しを受けて光っている。俺はその眩しさに思わず目を細めた。同時に、胸の奥から酸っぱいものがせり上がってくるようで、ひたすら押し込んだ。
そうやって平坦な道を歩く。道端には青い草が茂って、時折生ぬるい風に揺らされていた。やっと目的の場所に辿り着くと、突然強い風が吹き抜ける。ぎゅっと瞑った目を、ゆっくりと開いたとき俺は息を呑んだ。
俺よりも先に誰かがそこに立っている。よく見ると足元には黄色い花が供えられていた。なにより俺はその人から目が離せなかった。色素の薄い茶髪や、白いシャツから覗く少し日に焼けた肌を見て心臓の鼓動が大きく響く。指先が震えて、自分が今どんな表情をしているかすら分からなかった。目が見開かれて、息も上手くできない。だから、あの人を呼ぶ声も震えてしまった。
「カレン、さん…」
そこに立っている人が驚いた顔をしながら振り向いた。目と目が合っている時間をとても長く感じたけれど、俺はまだ瞬きもできなかった。
「誰?」
問いかけられた声が思いの外低くて、彼が男性であることをやっと認識した。遠くから見ればスラッと細い線は女性的にも見えたが近くでみると背が高く肩幅が広い。しかし、顔は驚くほど似ている。
「カレンを知ってるの?」
再び尋ねられてどこかへ飛んでいた意識が戻った。
「あ、はい。」
普通ならここで「友達でした」とか言うんだろうな。でも、俺とカレンさんの関係は別に友達と呼ぶほどのものではなかった気がする。もっと知り合いとか顔見知りとかに近い、でもそれらよりは親しいそんな感じだ。複雑なその関係を一言で表すことができなかった。
「それ、カレンが好きな花だ。もしかして、君はカレンの為に持ってきてくれたのかい?」
あの人に似た彼が、俺の手元を見ながらそう言った。
「あ、そうです。ここに供えようと思ってきたら、…貴方がいて、」
「カレンも喜ぶよ」
彼はうんうんと頷いて、ふと空を見上げながら優しく微笑んだ。その光景がいつしかと重なって見えて、なんだか息が苦しくなる。
雲を抜けた太陽から厳しい日が差して、目を細める。耐え難い暑さに何故か胃酸が込み上げたようで、胸を抑えながら必死に飲み込んだ。じわりと汗をかいて、シャツがしっとり濡れた。俺は深呼吸をして落ち着けと自分に言い聞かせてみたけれど、息は上がったままだ。軽いめまいを感じて、膝に手をついた。
「君、大丈夫かい?具合が悪いなら日陰で休んだ方がいい。僕の家はこの近くなんだ。そこまで歩けるかい?」
彼はいかにも優しいそうな声でそう言った。弱ってる時に優しさに触れると図らずも涙が出そうになるだろう。泣きたいようなそんな気持ちだった。俺はこんなに優しい人を彼の他には知らない。だって知りもしない他人が具合が悪いからといって、家に招くことはしないだろう。彼はきっとあの人と同じように善人なのだろうな。正直、立ってるのも辛くて、この場に倒れこんでしまいたかった。その方が早くこの苦痛から開放される。そういう訳にもいかなくて、やっとの事で首を左右にふるふると振った。初対面の人にこんな醜態を晒すなんて、目に溜まった涙は今にもこぼれ落ちそうだった。
「それなら僕に掴まって」
そう言って彼が示したのは彼の首だった。首に掴まるとはどういうことだと思いつつも手を彷徨わせていると、彼は俺の腕を自身の首に巻き付けた。次の瞬間には宙に浮いていて、浮遊感に腕の力を強める。焦って降ろしてもらおうともがいたけれど、善意100%の顔で『まかせて』なんて言われたら文句を言うこともできなかった。顔が真っ赤になっていたのは羞恥心ではなく具合が悪いせいだ、という言い訳すら口に出せなかった。
俺がカレンさんに出会ったのは今日みたいな夏の暑い日だった。河原の小道を歩いていたら猫が歩いていた。何の気なしにその猫についていった。強いて理由をつけるなら、猫が見事な三毛猫だったからだろうか。ただ少し惹かれるものがあった。しばらく行くと、踏切のそばの歩道に子猫と1人の少女がいた。その少女がカレンさんだったのだ。
誰からも好かれるような、愛想の良さと綺麗な顔立ちをした明るい人。俺は人見知りで、なかなか心を開けないタイプだけど、彼女にはよく笑顔を引き出されてしまった。俺はその日から猫に餌をあげるためにそこに通い始めた。そして、踏切の近くに住んでいるという彼女も一緒に餌をあげていた。一言で言ってしまえば餌やり友達みたいなものだ。なんだそれ、って思うけれど本当にそんな感じ。だって猫以外で会うことはないし、会うための連絡手段すら得ようとしなかった。でも、それで十分だった。
都会から辺境に引っ越してきて、しばらく経っても馴染めなかった。なんとなく好奇の目で見られているような気がしたし、どこにいても疎外感を感じていた。正直、息苦しかったんだと思う。ここにも居場所は無いのだと実感してしまうことが苦しかった。
彼女に出会ってからは世界が少し変わった。1日の楽しみができた。心から笑うことができた。なにより、息が吸いやすくなった。ここに居てもいいのかもしれないと思えるようになった。それがカレンさんとの出会いだった。
「レモン水、おかわりするかい?塩も入れといたよ。」
「いや、もう十分です」
具合が悪いのは水分不足だからだろうと言って、無理やりコップ3杯分飲まされたときはお腹が破裂するかと思った。出された手前、飲まなきゃ悪いと思って次々飲んでいたのが仇となったか。しかしこれも全て善意から行っているのだから、たちが悪い。やっぱり文句を言う気も、反抗する気も起きなかった。
彼は陽真と名乗った。カレンさんとは双子で陽真さんが兄だという。顔が似ているのも納得だった。髪の長さも違うのになぜ間違えたのか自分でも疑問だが、たぶん雰囲気が似ているからだろう。見れば見るほど似ているその顔は、やっぱり見慣れない。だってあまりにもカレンさんに似ているから。くっきりとした目に、筋の通った鼻梁、きめ細かい肌、それに柔らかそうな唇まで一緒だ。でも、よく見ると違うところもある。腕の筋肉、筋の浮き出た首、骨ばった手が男らしい。双子といえども彼はやっぱり男なんだと思わせられる。
「そろそろ君も僕の顔が見慣れてきたかな?初めて会った時の驚いた顔と言ったら……見ものだったよ」
陽真は楽しそうにケラケラと笑った。笑うと見える白い歯が綺麗な弧を描く。目が細く引かれるのが幼く見えた。そのちょっとした動作一つひとつに何故か心臓がドキッとしてしまうのだ。
「み、なれはしないですけど、」
「どうして?カレンと似てるからかな」
「それもあるけど、……」
カレンさんが爛漫で美人な人だったから、その双子って言うだけで、兄である陽真さんも顔が整っているわけで……それはもうもの凄く整っている訳で。顔を直接見るのは眩しさに目がやられてしまう。どれだけ見たって見慣れはしないだろ。
「そういえばまだ君の名前聞いてなかったね、聞いてもいいかな?」
「あ、…清水透華っていいます。」
「とうか?透華……綺麗な名前だ。」
この人前々から感じてたけど、思ったこと口に出ちゃうタイプの人なんじゃ……
「…自分の名前だけは、好きなんです」
「名前だけ?それ以外は?」
陽真は驚いたように目を見開いた。彼の目は見入るように透華を見つめている。透華は居心地悪そうに目を逸らした。
「……それ以外は、特に誇れることも無いので」
初対面の人にネガティブな発言をしてしまうなんて、絶対重い奴だと思われるな。なんでこんなこと言っちゃったんだろう。いつもならもっと上手くかわせるのに。
「何を言い出すかと思えば……君は魅力的な人だよ。どうして自信が無いのかわからないけど、僕にとって君は綺麗な人だ。」
「っ……」
陽真は純粋そうに、心からそう思っているように言った。悪い気はしないけれど、どう反応したら良いかわからなかった。透き通るような瞳に見つめられると、自分の醜さが浮き彫りになるみたいで心苦しい。俺のどこが綺麗なのか理解できなかった。そもそも初対面なのに何がわかるのか、という反抗心も湧いた。小心者の透華が口に出すことはないけれど。
「カレンのために花をたむけてくれた、悲しんでくれた、苦しんでくれた、祈ってくれた。君が優しい人だと決めるにはそれだけで十分だよ。」
陽真は穏やかに微笑みながら透華を見る。疑いもしない真っ直ぐな言葉たちにもっと気まづくなった。
「これは優しさなんかじゃなくて……当たり前のことです。陽真さんこそ、初対面なのにこんなに良くしてくれて……優しいですね」
透華はお節介という言葉を遠回しに言えば優しいになるだろうか、と頭の隅で考える。
「僕は君だから優しくしたんだよ」
間髪なく聞こえた言葉に、透華は陽真の方をちらりと見た。見たのは一瞬だけだったが、しっかり目が合ってしまった。一瞬しか見てないのになんで、と考えては、もしかしてずっと見られているのではという考えに行きつく。しかし、それを確かめる勇気がないのだ。逸らした顔をもとに戻すことはできなかった。そのまま何と返すべきか思索していると、陽真が「困らせるつもりは無かったんだけどな」といいながら気の抜けた笑顔をみせる。彼の温和な表情を見ていると、自然と不安も毒気も抜かれてしまった。
元々はカレンさんと2人でこの古風な家に住んでいたという。両親は海外で働いていてなかなか帰ってこないらしい。そういうわけで陽真さんは今一人で暮らしているようだ。
「1人でいるのは寂しいよ。誰かが話し相手になってくれたらな」
陽真は独り言にしては大きな声で、透華を見ながらそう言った。しかし、透華は俯いていたので、陽真が見ていたことには気がつかなかった。
「陽真さんが言えば誰でも話し相手になってくれると思います」
「誰でも?本当に?」
まるで俺に聞いているのかと思うほど顔を覗き込まれる。俺は少し後ずさるようにして答えた。
「は、い。ほんとです」
「…透華くんがいいな」
「え、俺……なんで」
陽真は顎に手を置いて、迷っている素振りをみせる。
「さあ、なんでだろうね」
「……え?」
陽真は眉尻を下げながら困ったように笑った。
なぜかなんて、陽真さんにしかわからないだろうに、どうして俺に聞くんだ。
「ダメかな?」
「ダメじゃ、ない…です」
人見知りなのに、普段なら絶対断っていたのに、陽真さんの顔を見たら断ることはできなかった。
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