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お互い二十九歳で結婚。
三十歳の時に息子が生まれた。
彼はジムのインストラクターとして一生懸命働き、私は市役所でパート勤務。貯金も順調に溜まり、そのうち夢のマイホームも買えるね、と笑いながら話していたのである。忙しくも幸せな日々を送っていた、そのはずだった。
三十四歳。息子の海斗が四歳の時。
彼が深刻な顔で、私に頼み事をしてくるまでは。
「……こんなこと、絶対に信じてくれない、と思う。俺だって正直まだ半信半疑なんだ。でも、俺じゃなきゃ駄目だって、俺以外にできないことなんだってそう泣きつかれてさ」
毎晩、同じ夢を見るようになったという大海さん。
一人の少女が現れて、自分達の世界を助けてくれと大海さんに訴えかけてきているというのだ。なんでも、魔王の軍団が世界征服を目論んでいて、自分達の世界の人を苦しめていると。彼等に対抗できるのは、特別な能力を持った異世界の人だけで、その資格があるのは大海さんだけなのだと。
それなんてゲームの世界?あるいはラノベ?と思ったのは私だけではなかったようだ。大海さんも、到底信じられず、最初はただの夢だと思っていたという。
ところが、夢はもう一週間も続いている。しかも夢の中に現れる少女が、日に日にやつれてボロボロになっていくというのだ。
これは本当に、本当なのかもしれない。
彼等を自分だけが救えるのかもしれないと、そう思うようになったという。
「俺がOKしたら、その日の夜にはもう……俺は夢を経由して、異世界に転移するらしい。そうなったら当面の間、この世界に戻ってくることができないんだ」
「当面って、どれくらい?」
「……わからない。多分、世界を救えるまでだろう」
信じられないが、彼の顔は嘘を言っているようには思えない。
そして、彼がけして嘘をつくような人間でないことは、妻の私が誰よりよくわかっているつもりだった。
「仕事は?海斗はどうするの?」
紛れもなく事実なのは。彼が嘘を言っていようが誰かに騙されていようが関係なく、当分彼が家に帰ってこれなくなるということ。
「仕事は……イベントの繁忙期があるから、それまではやる。明後日を乗り越えれば何とかなると思う。その後、休職届けを出してくる」
私に責められるのはわかっていたからだろう。彼は暗い顔で、そう告げた。
「海斗のことは……ごめん、頼む。世界を救ってくる、なんて言ってもこの子はきっと信じないし、わからないだろう。下手にそれを他の人に話していじめられてもいけないから、秘密にしておいてくれないか。なるべく早く帰ってこられるように努力するから」
勝手なこと言わないで、と思った。
仮に本当だとしても――見たことも聞いたこともない異世界とやらと、身近にいる家族のどっちが大事なんだと。彼の収入がなくなれば、貯金を切り崩さないと生活が成り立たなくなるだろう。せっかく溜めたマイホームのためのお金を使わないといけなくなるなんて冗談じゃない。そして、長期化すればそれだけでは足らなくなるかもしれないのだ。
それに、パパ大好きっ子の海斗が寂しがるのは目に見えている。秘密にしておけって、それでどうやって子供を納得させればいいというのか。なんで、家族より赤の他人を優先するのか。
「……そう」
それでも。私は思ったことを口にはできなかった。
私が好きになったのは、見知らぬ人を躊躇いもせず助けることができる大海さんだ。それもまた、間違いないことだったから。
「わかったわ。……一秒でも早く、帰ってきてね。私達のこと、忘れないでね」
「忘れるはずないよ!絶対に、戻ってくる。……本当にごめん、ありがとう、樹奈」
「うん……」
明々後日。
彼は鍵のかかった部屋から、忽然と姿を消した。
本当に煙のように、魔法としか思えないような形で。
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