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ガトー・フレーズの季節 I - la saison du gâteau aux fraises I -
マルク・オトニエルがこの不遜な男と知り合ったのは、十九年前の夏のことだ。
アストレンヌ大学に入学する前日、親元を離れて男子寮にやってきたマルクは、その壮麗さに目を見張った。
いかに名門校といえど、男子学生寮だ。きっとガサツな男子学生たちに荒らされて壁は破れ、床は汚れ、ゴミや埃や誰かがイヤになって破った教本の切れ端なんかが散らかっているのだろうと、男ばかりの六人兄弟で育ったマルクは思っていた。
しかし、そんな想像と正反対どころか、正反対を遙かに超えていた。
大学の校舎と同じく寮も神殿を思わせるような大理石造りで、三角の屋根を支える左右の太い柱には、神話の神々や英雄などの代わりに、古代から現代に至るまでの高名な学者や、かつてアストレンヌ大学で教鞭を執っていた教授たちの顔や名が浮き彫りにされている。
生まれ育った東部のレゼルヴェル地方の古城などとは比べ物にならないほど大きい。そのうえ、床にはゴミ一つ落ちていない。
夏の陽射しが照りつける屋外は薄物の長袖のシャツでは少し暑いくらいだったが、建物の中は空気がひんやりとして涼しかった。広いエントランスには、身なりの良い使用人や女中が十人ばかりズラリと並び、まるで王族を出迎えるような丁重さで田舎からやってきたばかりの新入生を歓迎した。
これを新しい寮生が来るたびにやっているのかと思うと驚くばかりだ。名門貴族のマルクでさえ、実家の使用人たちにこれほどの出迎えをされたことはない。
きょろきょろと辺りを落ち着きなく見渡すマルクを、白髪交じりの茶色い髪をひっつめた年配の女中が案内してくれた。
エントランスや古代の英雄の神話やかつて長年争っていたイノイル王国との和平などがモチーフになったタペストリー、歴代の国王と王妃の絵画が壁に並び、その奥には日当たりの良い談話室がある。
ここでは学友と議論したり、ボードゲームやカードゲームに興じたり、あるいは何もせずぼうっとしていたっていい。
二階の食堂は朝から夜まで料理人や給仕係が常駐していて、勉強や遊びに疲れた育ち盛りの寮生のために、求めに応じていつでも食事や飲み物を出してくれる。
その他、数多の蔵書を有する書庫や、音楽を学ぶ寮生のためにさまざまな楽器が置かれた練習室、運動場、蒸気浴室まで備えられている。
(さすが王都の王立名門だ)
寝室もさぞかし広くて綺麗で快適なのだろう。
マルク少年は期待に胸を膨らませて女中に導かれるまま絨毯張りの階段を上がった。部屋は、三階の南側の一番奥にあった。
「あなたはもう一人の寮生と相部屋よ。彼も一昨日到着したばかりだから、新入生同士ゆっくり親睦を深めてちょうだいね」
と、女中が言って、アーチ形の扉を開けた。
「わぁ…。――ん?」
どう見ても一人部屋だ。
部屋はなるほど確かに広い。落ち着いた深い緑の壁に、床には織物の絨毯が敷かれ、調度品も一目見て一級品だと分かるほどのものが配置されている。
二人分はありそうな大きな寝台が一台部屋の隅に置かれ、大人が三人は座れそうな布張りの大きなソファが部屋の中央に――そう、部屋のど真ん中に置かれている。
もう一人が生活できる空間がない。
マルクが呆気に取られていると、女中は両手を腰に当てて、憤然と言った。
「ムシュ・コルネール。勝手に部屋の配置を変えられては困ります」
この言葉を聞いて初めて、マルクは寝台が広い一台の寝台なのではなく、二つの寝台を横並びにくっつけたものだということに気付いた。確かに部屋の反対側の隅には、大きな家具が置かれていた形跡がある。
すると、中央のソファからむくりと起き上がった少年がいた。
白いシャツの上に光沢のある上等なベストを着て、ズボンも折り目のきっちりした細身のものを履きこなしている。
少年はソファに寝そべって本を読んでいたらしく、片手に何やら難しそうな分厚い本を持ったまま座面に膝を立て、気怠げに真っ黒な髪をかき上げて、戸口に立ち尽くすマルクと女中を邪魔くさそうに見た。
自分よりも少し背が低くてどちらかというと華奢な体付きの、恐ろしく顔立ちの整った少年だった。女の子だったら一目惚れしていたところだ。
「ルドヴァン公爵だ」
「ここは学堂ですよ。爵位は関係ありません。すぐにお部屋を元にお戻しなさい。すぐにムシュ・オトニエルの荷物が運ばれてきますからね。まったく、もう」
と、女中が憤然とその場から立ち去った後、じろりとマルクを見て、仕方ないというように溜め息をついた。
「僕、マルク・オトニエルだ。よろしく」
マルクはニカッと笑って手を差し出した。
‘デュク・ド・ルドヴァン’少年は何だか不審なものを見るように深い緑色の瞳をマルクに向け、ソファから立ち上がって面倒くさそうに握手に応じた。
「アルヴィーゼ・コルネールだ」
「デュク・ド・ルドヴァンくんって呼んで欲しいか?それともただのアルヴィーゼ?」
アルヴィーゼは形の良い黒い眉を寄せ、深々と谷を刻んだ。ムッとしたらしい。ところが、マルクには何の悪意もない。どう呼んで欲しいか新しい友人に訊ねるのは、マルクにとっては当たり前のことだ。
「アルヴィーゼでけっこうだ」
アルヴィーゼは手を離し、素っ気なく言って、再びソファにごろりと寝転んだ。
「おいおい、部屋を戻してくれるんじゃなかったのか?」
「隣の部屋に俺の従者がいるから呼んで来いよ」
アルヴィーゼは本を開いて顔の上に乗せ、それきり動かなくなった。
「なんてこった」
マルクが嘆いたのは、その恐るべき身勝手さに対するものではなかった。
「君、具合が悪いんだな?」
「…は?」
アルヴィーゼは思わず本を顔からどけて目を見開いた。心配そうな顔のマルクが目の前に来て、熱を確かめるように額に手を当ててくる。
「病弱なんだろ?だから寝台を広くしたかったんだ。うなされて寝返った拍子に床に転げ落ちたりしたら痛いもんな」
「違う」
アルヴィーゼは鬱陶しげにマルクの手を払いのけて起き上がろうとしたが、マルクはアルヴィーゼの肩を押してソファに戻した。力が強い。
「いいって!無理するなよ。事情を話して新しい寝台を頼んだらもう一台もらえるんじゃないかと思うんだ。僕は身体が丈夫だから何日かソファで寝たって問題ないぜ。それに僕、どこでも寝れるんだ。な?」
「‘な?’じゃない」
アルヴィーゼはうんざりしたように立ち上がり、本をソファに残して大股で扉へ向かった。
「ドミニク!」
数秒もしないうちに隣の部屋から栗色の髪をした従者らしい少年がパタパタとやって来た。アルヴィーゼと同じく、身なりが良い。
「なんだか珍妙なやつが来た。仕方ないから部屋を戻しておけ。俺は書庫にいる」
「はいはい」
ドミニクはぽかんとするマルクに礼儀正しく挨拶をして、いかにも人当たりの良さそうな笑顔を見せた。
「うちの主人がすみません。ああいうやつなので、適当に付き合ってください」
マルクは何だかおかしくなって大声で笑い出した。
「‘珍妙’ですって」
イオネが珍しく声を上げてころころと笑った。
「おかしいだろ。十歳の子供が、普通言わないよな」
マルクはコルネール邸の広間でブランデーを片手にソファに座り、その向かいにゆったりと座る親友の妻と一緒になって笑い声をあげた。
「まさかドミニクが一人で家具を動かしたの?」
「俺も手伝ったよ。でも子供二人が寝台を動かすには無理があるから、何人かの使用人に駄賃をはずんでお願いしたんだ。最初に動かしたときと同じようにね」
「駄賃と言うより、賄賂ね。呆れた」
イオネはスミレ色の目をぎょろりとさせて肩を竦めた。
「もっと可愛げのある少年時代を想像していたけど、その頃からもう自分勝手な人だったのね」
「いやいや、イオネ。俺たちはすぐに良い友達になったよ。アルヴィーゼのやつ、意外とけっこう優しいところがあったんだ」
入学直後から、アルヴィーゼは目立っていた。
同学年の生徒だけでなく、年上の学生や教授たちに対しても態度が大きかったとか、他の学生と比べてずば抜けて優秀だったとか、王家と姻戚関係にある家格だからとか以前に、その容姿だ。イノイル人の一部に見られる真っ黒な髪は、エマンシュナ人には異質だ。
だから、無知で残酷で幼い貴族の子供たちは、珍しい容姿のアルヴィーゼを悪意を込めて「カラス」と呼んだり、「辺境の田舎から来たからあんなに髪が煤けているのだ」などとわざわざ本人の聞こえるところで悪口を叩いた。大人の貴族社会では、コルネール家の人間を侮辱するなど考えるだけで恐ろしいことだが、甘やかされて育った世間知らずの貴族の子供たちの目には、アルヴィーゼは「なんだか知らないが辺境から来た態度がデカくてスカしたやつ」としか映らなかったのだ。
しかし、アルヴィーゼはそういう連中を歯牙にも掛けなかった。むしろ、マルクの方がひどく腹を立てた。
入学してから暫く経ったある日、経済学の授業を受けるべく大学内の柱廊をいつものようにアルヴィーゼ、マルク、ドミニクの三人で移動していると、同学年の某という猪のような生徒が取り巻きを四、五人引き連れて歩いてくるのと鉢合わせた。某はわざわざ肩を強く当てて来て、よろけたアルヴィーゼに向かって「貧弱なカラスの坊ちゃんは山へ帰れ」と罵り、右手で侮辱的なサインをして見せた。
マルクはこれに耐えかねて相手の胸ぐらを掴み、殴りかかった。当然、人数の多い相手が有利だ。取り巻きが一斉にマルクを取り押さえて殴ろうとしたのを、ドミニクとアルヴィーゼが引き剥がし、或いは殴りかかって止めた。すぐに気付いた教授が止めに入ったので、全員大した怪我もなく、学長の厳重注意で済んだが、喧嘩の原因を問われたアルヴィーゼは本当のことを言わず、「互いに肩がぶつかったのが原因で争いになった」とだけ答えた。
「なんで本当のことを言わないんだ?いつもイヤなことを言われて耐えてるじゃないか。僕はああいう、わざわざ群れて他人を傷付けようとする卑怯な奴らが大嫌いだ」
マルクが憤然と問い詰めると、寝室のソファで本を読みながら、興味なさそうにアルヴィーゼは言った。
「あいつらが無知で愚かなのは無能な親のせいだ。でも俺がここで糾弾したらあいつら大学を追い出されるだろ。割に合わない。あと、別に興味もない相手に無駄な労力を使いたくない。お前も無視しろよ。今日の手出しは余計な世話だった。ああいうのは頼んでない。もうするな」
マルクはにべなく突き放されて怒るどころか、アルヴィーゼの懐の深さにすっかり感動してしまった。
「お前、本当にいいやつだな」
「‘お前’?」
アルヴィーゼは眉をひそめた。が、マルクは気にしない。
「でもな、親友。僕はドミニクと違ってお前の従者じゃないから言わせてもらう。相手が無知で愚かなら、教えてやるべきだろ。お前に手を出すと家族がヤバいことになるって」
「そこまで面倒見きれるかよ。それと、お前と親友になった覚えはない。気安くするな」
「照れるなよな。一緒に喧嘩したんだから、もう親友だろ。な?」
アルヴィーゼは鬱陶しそうにマルクを一瞥して、再び本に目を戻した。
「‘な?’じゃない。しつこいやつだな」
アルヴィーゼはそう言ったが、それ以降、マルクがアルヴィーゼを親友と呼んでも逐一否定することはなくなった。
「ふふ」
イオネが笑って蜂蜜酒入りの紅茶が湯気を立てるティーカップを持ち上げた。
「あなたがアルヴィーゼのそばにいてくれてよかったわ。あなたにはきっと親友と呼べる人がたくさんいるのでしょうけど、あの人と親友になれるのは、あなたくらいだもの」
「それが、そうでもないんだよな」
マルクはちょっとはにかんだように笑った。
「その喧嘩以来、今度は俺が嫌がらせをされるようになったんだ。教本を破られたり、ペンを隠されたり、女同士のいじめみたいに陰湿なやつさ。――ああ、ごめん。別に女性がみんなそんなことしてるって思ってるわけじゃないんだ。でも、よくあるだろ?ほら…」
「大丈夫よ。分かってるわ、マルク。残念ながら、よく聞く話だわ」
「だろ?君に理解があって助かったよ。そういうやつさ。とにかくだ。そしたらあいつ、俺には余計な世話だとか言ったくせに、自分はやるんだよ」
「何したの?」
イオネは興が乗って身を乗り出した。
「相手の胸ぐらを掴んで、床に放り投げたんだ。しかも授業中だぞ」
「まあ」
「貴様ら揃いも揃ってこそこそしやがって、胸糞悪い。二度としてみろ。コルネールの権力でお前らを王都にいられなくしてやる!ってさ」
マルクはソファから立ち上がって当時のアルヴィーゼの高い声色を真似した。
「侠気に溢れているわ」
イオネは大真面目に頷いた。誇らしげだ。
「で、もうそれ以来誰も怖がってアルヴィーゼに近付かなくなったんだ。もちろん、俺にも。こんなに愛されるべき男なのにさ。だから俺たちは、お互いを親友とするしかなかったのさ」
マルクが大仰な動作で肩を落として見せたので、イオネはおかしくなってまた声を上げて笑った。
「でも、意外だわ。あの人外面はいいから、子供の頃もそつなく人付き合いをしていたのかと思った」
「あいつの処世術は、十一の時に母君を亡くしてから身についたものさ」
マルクはその日のことを今も覚えている。
母ジゼルが倒れたとルドヴァンから遠く離れたアストレンヌへ報せが来たのは、冬の厳しい寒さも去り、間もなく雪解けを迎えようかという季節のことだった。
早朝にコルネール家の使用人が早馬で寮へやって来て、その急を報せたのだ。
まだ眠りの中にいたマルクは慌ただしく身支度をするアルヴィーゼの物音で目覚め、朝食の後一緒にマルス語の授業を受けるはずのアルヴィーゼが旅装を整えたことに気付いた時には、既にその姿はドミニクと誰か大人の男が立つ扉の向こうに消えようとしていた。
「あれっ?…やばい。もうそんな時間か?」
「違う。しばらくルドヴァンに帰る」
まだ半ば寝ぼけているマルクに向かってそれだけ言い残すと、アルヴィーゼは駆けるように出て行った。
アルヴィーゼが戻ってきたのは、それからひと月後だ。アストレンヌでは街道の雪は溶け、花が綻び始めていた。久しぶりに寮の部屋へ帰ってきた親友の顔を見てすぐにわかった。母親の葬儀を終えたのだ。
「おかえり、親友。待ってたぜ」
マルクはいつものようにニカッと笑ってそれだけ言い、アルヴィーゼの肩をたたいた。
「相変わらずうるさいやつだな」
アルヴィーゼもいつも通りだった。マルクにはそれが嬉しかった。
それからのアルヴィーゼの言動は、まるで大人だった。立ち振る舞いも、言葉も、マルクやドミニクの前でだけ見せる尊大で不遜な態度とは真逆の、非の打ちどころのない立派な紳士だった。本格的に剣術や馬術、狩りなどで身体を鍛え始めたのも、この頃だ。
「だからさ」
と、マルクはイオネに機嫌良く言った。
「前にも言ったけど、君の前ではまったくもってアルヴィーゼらしく振る舞うあいつを見たときは、俺、 すごく嬉しかったんだよ。飾らずに心のままを見せたいと思える女性に出会えたんだって思ってさ」
「まったく、迷惑な話だわ」
と、イオネはツンとしたが、なんだか胸の中がくすぐったい。そういうイオネの感情もマルクには分かっているのだろう。マルクは目を細めて続けた。
「今思うと、母君を亡くして早く大人にならなきゃって気を張ってたのかもなぁ」
マルクはソファに深く腰掛けながら言った。イオネはカップをテーブルに置いて小さく息をついた。
「そうね。そう言う気持ちは、わたしもわかるわ。わたしも父を十四の時に亡くしているから。わたしも、尊敬する父に恥じないよう生きようって思ったわ。まあ、わたしの場合は処世術はあんまり身に付かなかったけれど、その代わりに父が生きていた頃よりも研究や勉学に時間を費やしたわ。父はわたしの才能をたくさん愛してくれたから」
「ハハ、想像できるよ。君らしいなぁ。親父さんもさぞ鼻が高いだろうね。天国で君のことをきっと自慢しまくってるよ。才能だけじゃなくて、君っていう人をまるごと」
「優しいのね、マルク。あなたって人を慰めるのが上手だわ」
「アルヴィーゼもだよ。俺はあいつに随分慰められた」
「あら。どんなふうに?」
「俺、初めて女の子と付き合ったのが十二歳だったんだけど」
「早熟ね」
「そんなことはないさ」
マルクは照れたように笑った。
「でも、すぐに振られちゃったんだ。相手は同い年のマリーって子で、笑うと、こう…、小さい犬歯が見えるんだ。可愛い子だったよ。初めて好きになった子だったから、すごく落ち込んだんだ。そしたらあいつ、‘そんなに落ち込むならナヴァレにでも入れ’って言うんだ。‘花形のナヴァレなら女が寄ってくるだろ’ってさ」
「もしかして、それで本当にナヴァレに入隊したの?」
イオネが信じられないというように訊ねた。
「そうさ。単純だろ」
「ほんとね」
イオネはくすくす笑った。
「でも、どうして振られてしまったの?」
「それが、よく覚えてないんだ。どういう理由だったか」
「俺は覚えている。お前がしゃべり過ぎるっていう理由だったろ」
イオネとマルクは広間の入り口に顔を向けた。仕事から帰宅したアルヴィーゼが戸口に立っている。
アルヴィーゼは深緑色の上衣を後ろに立つドミニクに脱いで渡し、まっすぐイオネの方へ歩み寄った。
「よお、親友」
「おかえりなさい、アルヴィーゼ」
「オクタヴィアンは?」
「ソニアが寝かしつけてくれたわ。つかまり立ちを上手にできるようになったのが嬉しいみたいで、昼間は書斎の本棚の下から二段目をめちゃくちゃにする特訓をしてたのよ。とりわけ考古学の本を投げるのが気に入ったみたいね」
「ふ。それはよかった」
アルヴィーゼはゆったりと笑んでイオネの隣に腰を下ろし、イオネの頬を引き寄せると、マルクの目も憚らず唇を重ねた。挨拶程度の可愛らしいものではない。
「ん…!ちょっ――」
その激しさにイオネは夫を押しのけようとしたが、びくともしない。舌が唇をこじ開けて中へ入ってくると、イオネはアルヴィーゼの唇の下で怒りの唸り声を上げた。
唇が解放されると、イオネは「もう!」と夫の肩を拳で叩いた。顔が真っ赤だ。
「人前でやめてって言ってるでしょ!」
「あんなやつは気にしなくていい」
アルヴィーゼは白々と言った。
「気になるわよ!」
「まあまあ」
マルクは機嫌良く言った。
「俺はいつまでも待つよ。なんならその先も――」
「それ以上続けたらその口を縫い付けるぞ」
アルヴィーゼはピシャリと言った。
「まったく、イオネと仲良く話してたからって妬くなよな。せっかく親友の誕生日を泊まりがけで祝いに来たのに肝心のお前が仕事で遅れてるって言うから、イオネにお前との昔話を聞かせてたんだ」
「ええ。とっても楽しかったわ」
イオネが言うと、アルヴィーゼはうんざりしたようにマルクを睨んだ。
「余計なことを」
「安心しろよ。お前が泣かせた女性たちを俺がよく慰めてたとかいう話はしてないからさ」
この余計な話は意図的だ。マルクは茶目っ気たっぷりに二人に向かってウインクして見せた。
「へぇ…」
と、低い声色で相槌を打ったのは、イオネだ。
アルヴィーゼはニヤリと笑った。
「気になるか」
「別に」
イオネは気の強いスミレ色の目をアルヴィーゼに向けて冷たく言うと、肩を抱いてくる夫の手からスルリと抜けて立ち上がった。
「さ、遅くなったけど夕食にしましょう。マルクが明日の誕生日のお祝いに持ってきてくれたお酒も楽しみだわ」
「君のためにエル・ミエルドの蜂蜜酒も用意したんだ」
マルクがイオネの肩を抱いて笑うと、アルヴィーゼは虫を追い払うようにバシッとその手を叩いてイオネの肩を自分の方へ抱き寄せた。
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