オケアノスの眠りとスミレの夢 - un baiser pour le Duc endormi -

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オケアノスの眠りとスミレの夢 - un baiser pour le Duc endormi -

 爽やかな風の吹く初夏のある晩、ルドヴァン公爵夫人イオネ・コルネールは珍しいものを見た。  夫だ。それも、ゆったりとした寝衣のシャツを身に付け、髪も濡れたまま長椅子に横たわってすやすやと眠っている。  夫婦なのだから夫の寝顔を妻が目にすることなど珍しくもないであろう。というのは、一般的な夫婦の一例に過ぎない。  大陸の四分の一の領土を誇る大国エマンシュナ王国において最も忙しいとされるこのルドヴァン公爵夫妻に関して言えば、妻のイオネが夫アルヴィーゼの寝顔――それも、居眠り姿を目にすることは、四つ葉のクローバーを偶然足元に見つけるよりも稀な珍事と言える。  王国で最も豊かな北西部の領主であるルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールは、家業として展開している貿易事業の最高責任者という顔も持っている。公爵自身が実際に港や国内外の拠点に赴いて舵を取ることもあり、膨大な量の机仕事も全てを部下に任せきりにせず、忙しなく働いている。そして、一日の終わりには妻と幼い息子の元へ戻る。ここのところは概ね、イオネが眠った後のことだ。  それが、今宵は違っていた。  公爵夫人として家政を裁量する傍ら言語学者としての顔も持つイオネは、アルヴィーゼに負けず忙しい。  学者仲間から依頼を受けた翻訳の仕事に夢中になってつい夜更かしをしている間に、夫は眠ってしまったらしかった。 (わたしを待っていたのかしら)  イオネは燭台を近くのサイドテーブルに置いて床に膝をつき、夫の寝顔をまじまじと眺めた。黒い睫毛を目元に伸ばしてまぶたをしっかりと伏せ、穏やかに寝息を立てている。頬に高い鼻梁の影が落ち、燭台の仄かな明かりがその整った造形の上で踊った。  イオネは椅子に頬杖をつき、小首を傾げて、その引き締まった唇に指先で触れてみた。アルヴィーゼが起きる気配はない。 「きれいなかお」  唇が無意識のうちに心の中を吐き出し、緩んだ。  一度も夫に告げたことはないが、イオネはアルヴィーゼの容姿がとても気に入っている。この世に存在する男という生物の中で、至高のものを持っているという確信があるほどだ。王国中の女がこの男を欲しがっているという流説も、ある程度は正しいように思う。  背が高く精悍な肉体を持ち、海の向こうの異国の血から受け継いだ漆黒の髪は切れ長の目をいっそう怜悧に見せ、エメラルドグリーンの瞳はまるで海のようだ。  一方でイオネは、胡桃色の波打つ髪にスミレ色の瞳、背は人並みで、顔立ちはそこそこ小綺麗だという自覚はあるが、老若男女から愛されるという類のものではなく、どちらかというと冷たい面立ちだと、自分では思っている。  そんな自分を、アルヴィーゼは世界で最も美しいなどとと恥ずかしげもなく言う。疑っているわけではない。その執着が鬱陶しいほどに夫が自分を愛していることは、十分に知っている。が、イオネは常々「そうかしら」と思うのだ。  夫との出会いは最悪だった。  女が大学にいるのを揶揄されたことにひどく憤慨したイオネがアルヴィーゼを罵倒したのが、この夫婦の初めての会話だ。  後になって分かったことだが、イオネの気を引きたかったアルヴィーゼが意図的にイオネを怒らせたのだった。アルヴィーゼの真意がどうあれ、イオネにとっては未だに腹の立つ思い出のひとつだ。  そして、そんな最悪な時でさえ、この男の容姿は好ましいと思った。  それくらい、この貌は狡い。自分にはないものだ。男に生まれ変わるとしたら、この貌になりたいとさえ思う。 「あなたって腹の立つ人よね」  イオネはそう囁いて夫の頬を指で強く突いた。  アルヴィーゼが形のよい眉をぐ、と寄せたので起きたかと思ったが、顔の向きを変えると再び眉間を開いて静かな寝息を立てた。  寝衣の襟から覗く首の筋が官能的な影を描いて、寝息と共に上下している。イオネは胸に熱が灯るのを感じた。  そう言えば、初めて身体を重ねた日もこうして寝顔を見た。今夜と同じように、珍しく居眠りをしているところに出くわしたから、無防備な姿を暫く観察してやろうと思ったのだ。そして、目を覚ましたアルヴィーゼにイオネが襲われた。  まだ誰も知らなかったからだをそのまま暴かれ、わけもわからないうちに全身に快楽を刻みつけられて、受け入れてしまった。  思えばそれが、ちょっと異常とも思えるほどの愛執に囚われる人生の始まりだったかもしれない。 「あなたがどれだけわたしの世界を変えてしまったのかわかってる?」  時々、この人と出会わなかったらどんな人生だっただろうと考える時がある。  この時も、イオネは考えた。眠る夫の唇を眺めながら、あの唇が自分に触れることなく人生を終える仮説や、今自分が触れている長い指が身体中に熱を残していく感覚を知らぬまま命尽きる仮説だ。  きっとユルクス大学で教授を続けていただろうし、もしかしたらもっと出世していたかもしれない。研究のため外国に留学するという選択肢もあったはずだ。  しかし、どんなときも辿り着く答えは決まっている。  どう考えても、無理がある。アルヴィーゼや我が子のいない人生はありえない。  出会うまでは一人でも生きていけていたのに、わたしをこんなにして。と、恨めしく思うこともある。  強引で、傲慢で、好き勝手に自分を振り回す、わたしだけを愛する、わたしだけの愛おしい夫。―― 「ふふ」  イオネは笑みをこぼした。 「あなたはわたしがどんな気持ちで寝顔を眺めているか知らないでしょう、アルヴィーゼ」  眠りに落ちた無防備な夫になら心の内を何でも言葉にできるだなんて、幼稚かもしれない。  しかし、イオネはそれでも満足だ。 (わたしの全てを掌握したがって振り回したいだけ振り回す暴君が、意識もなく、なす術もなくただ愛でられているだけなんて、なんて可愛らしいのかしら)  イオネには、そういう愉しみがある。  ところが、次の瞬間にその愉しみが霧散した。  眠りの中にいる夫が、はっきりと女の名を口にしたのだ。それも、一人ではない。  イリス、ニケ、レア――そういう知り合いを、イオネは知らない。途端にぐらぐらと胃の中が煮え立つように熱くなって、毛が逆立つような、ひどく不快な感覚が肌にのぼった。  自分以外の女をまったく眼中に入れないアルヴィーゼが他の女の名を無意識下で呼んだことにも驚きを隠せないが、それよりも自分がこんなに嫉妬深い人間だったことに驚いた。  そして、その驚きを怒りが凌駕したとき、イオネは薄布の寝衣を脱ぎ捨て、シュミーズ一枚の姿で、長椅子に乗り上げた。 (わたし以外では興奮しないと言ったくせに)  報復してやろうという思いつきが、イオネの身体を動かした。  イオネが報復の行為をしている間に寝ぼけて他の女の名を呼ぼうものなら、息子を連れて家出をしてやる。とまで思った。  イオネは夫の寝衣のシャツをめくり上げて綿のズボンの前を留めている紐をほどくと、そこを開いて下着を引き下ろし、中の肉体に触れた。寝込みを襲うことにひどい背徳感を覚えたが、今は倫理観などに構ってはいられない。  妻に支配されて無様に欲情する姿を見るまでは、やめるつもりはない。  イオネは指先で夫の脚の間に触れ、つ、と撫でた。柔らかい部分を優しく撫でて、根元から先端へと何度か上下を繰り返すと、眠りの中にある夫の身体の一部が硬度を増し始めた。  胸の中に暗い悦びが迫る。無抵抗な夫の肉体的反応で悦ぶ自分は、この男ほどではないにせよ、どうかしているのかもしれない。  イオネは唇を開いて硬くなり始めた夫の一部を口に含み、吸い付くように舌を這わせながら上下させた。  ゆっくりと同じ動作を繰り返すうちにアルヴィーゼは更に大きさを増して、張り詰め始める。先端を舌で強くつついたとき、夫の手が頭に伸びてきた。 「…ッ、イオネ――何してる」  イオネは視線を上げ、珍しく狼狽えた様子の夫を観察した。まだ目覚めきっていないらしい。声は掠れ、まぶたはとろんと二重の線が強くなっている。  暗い愉悦が顔に出た。夢の中にどんな女が現れようが、この男は自分のものだ。  イオネが無言のまま舌と唇で愛撫を続けると、アルヴィーゼの呼吸が熱を帯び、口の中のものが更に硬くなった。  頭上でアルヴィーゼの呻き声が聞こえた時、顎を掴まれ、身体を離された。吸い取りきれなかった唾液がアルヴィーゼの脚に滴り、イオネの細い顎に垂れた。 「どうした。ご機嫌斜めだな」  アルヴィーゼは唇の片側を吊り上げて笑い、イオネの顎を親指で拭った。  イオネはむう、と頬を膨らませ、唾液で滑ったアルヴィーゼの硬いものを手のひらに包むと、ゆっくりと上下に動かした。  アルヴィーゼが喉の奥で上げる小さな呻き声が、イオネの小さな復讐心を少しだけ満たした。が、まだ満足には程遠い。 「イオネ」  アルヴィーゼが焦れたように言ってイオネの腕を掴み、自分の胸へ引き寄せた。 「俺を屈服させたいのか」 「そうよ、アルヴィーゼ。不実な夫に屈辱を与えて懲らしめるの」 「不実も屈辱も、どちらも的外れだ」  そう訝しみながら、アルヴィーゼがイオネを止める気配はない。この状況を楽しんでいるふうでさえある。  イオネはレースの裾から伸びる白い脚をアルヴィーゼの膝にすり寄せ、首に噛み付いた。  アルヴィーゼが息を呑み、腕を腰に絡みつかせてくる。不埒な手がシュミーズの上から背を撫で、臀部を辿り、下着の紐を引いて、長い指が谷間を這った。  イオネは、その手をピシャリと叩いて夫に馬乗りになった。硬いものが露わになった臀部に触れている。イオネは夫のシャツを捲り上げてよく鍛えられた胸に触れ、何かを探るような手つきでその肌を撫で、至る所に吸い付いて、次第に熱くなる夫の肉体と息遣いに自尊心を満たした。  自分の中にこんな衝動があることを、初めて知った。  アルヴィーゼが耐えかねてイオネの腰を強く掴み、下着の裾を掴んでその甘美な身体の中心を暴こうとした時、イオネは腰を浮かせてそれを拒んだ。 「わたしが欲しい?アルヴィーゼ」  官能的なイオネの唇がゆったりと艶笑を描き、柔らかな手がアルヴィーゼの首の後ろに触れた。 「欲しい。今すぐ入れてめちゃくちゃに突きたい」  懇願するような声色だ。イオネの腹の奥がじくじくと疼く。 「ならあなたの夢に出てきた女が誰か教えなさい。何だったかしら。イリス、ニケ、レア?」  この時イオネは、面食らったような夫の顔をはっきりと見た。アルヴィーゼのこういう表情は珍しい。報復も忘れてその顔に見入っていると、脚の間に触れる夫の身体が更に熱くなったように感じた。 「俺の寝言に嫉妬したのか」  アルヴィーゼが愉しそうに目を細めた。胸が苦しくなる。やはりこの顔立ちは狡い。 「嫉妬じゃないわ。腹が立っているのよ」 「だから、嫉妬だろ」  とうとうアルヴィーゼが笑い声を上げた。イオネがムッとして身体を離そうとした時、勢いよく起き上がったアルヴィーゼに強い力で身体を抱き上げられ、次の瞬間には精悍な肉体の下にいた。 「あっ――!」  アルヴィーゼが中に押し入ってくる。  触れられてもいないのに中心は熱く潤って、夫の身体を受け入れていた。 「アルヴィーゼ!」  イオネが咎めると、返事の代わりに唇が下りてきた。舌が入ってきてイオネの口内を探り、舌を絡め取り、それに共鳴するように、アルヴィーゼの中心がイオネの腹の中で暴れ、内側を溶かした。  アルヴィーゼはイオネが窒息しそうなほどに激しく唇を貪った後、唇から顎へと啄むような口付けを繰り返して、蕩けたスミレ色の目を恨めしげに向けるイオネに柔らかく笑いかけた。 「俺が口にしたのは娘の名だ」  イオネは意味がわからず眉を寄せ、首を傾げた。二人のあいだにいるのは、夫に似た黒髪の可愛い息子だけだ。  無意識のうちにいくつかの仮説を立てようとしたが、身体の奥にいるアルヴィーゼが思考を乱した。  快楽が波となって身体の内側を駆け、頭へぞくぞくと上ってゆく。 「俺たちの子がもう一人生まれるなら、次は娘がいいとお前が言ったんだ。だから名を考えていた」 「…っ、そんなこと、言ってないわ」 「いや、言った。夢の中で」  ぎゅう、と胸が痛くなった。  なんと、この男は起きている間もほとんど妻のことしか考えていないと言うのに、眠っている間でさえも妻の夢を見ているのだ。 「酔狂なひとね」  イオネは次第に激しさを増す律動に耐えるようにアルヴィーゼの背にしがみついた。 「試そうか、イオネ。ここに――」  と、アルヴィーゼは愉しそうに笑ってイオネの下腹部を撫で、繋がった場所の上部で熱く熟れた実に触れて、イオネの身体に鋭い快楽を奔らせた。 「俺たちの娘が宿るかどうか」 「ん、あっ…!」  アルヴィーゼがイオネの脚を肩に担ぎ上げて深いところを突くたび、まるで毒のように腹の奥から背へ、全身へと快感が巡って、無数の泡が弾けるようにイオネの全ての器官を忘我の果てへ導いた。  意識が放り出される直前、イオネは何を口にしているか自覚もないまま、呼吸をするように愛の言葉を囁いた。  境界を無くすほどに強く抱きしめられ、アルヴィーゼの熱い肉体が自分の身体の中に熱を放った後、イオネは満ち足りた気分でゆっくりと眠りに落ちた。  アルヴィーゼは眠ってしまった妻の寝衣を整えて、横向きに抱き上げ、寝台へ運んだ。 「かわいいな、イオネ」  唇が勝手に綻んで、言葉を紡いだ。  アルヴィーゼはイオネの隣に横たわって一緒に毛布に包まり、腕の中にその温かい身体を包んで、乱れた胡桃色の髪を頬から避けて、額に口付けをした。  まさか、寝言で口にした女の名にあれほどの反応を示すとは思ってもみなかった。これは喜ばしい発見だ。  イオネは長いまつげを目元に伸ばしてまぶたを伏せ、安心しきった顔で眠っている。  この世の何よりも美しい貌が、この甘美な肉体が、蜂蜜のような声が、その存在すべてがどれほどアルヴィーゼの愛欲を駆り立てているのか、知っているのだろうか。 (いや、知るまい)  知っていたら他の女の夢を見たなどと思わないはずだ。  欲を言えば、片時も離さずそばに置いて他の誰の目にも触れないようにしておきたいし、自分がいなければ生きていけないほどに依存させてやりたい。しかし、それはただの浅ましい執着に他ならず、心から唯一神のようにイオネを尊愛してやまないもう一方の自分は、大海原に生きるイルカのように彼女自身の世界を泳ぎ回るイオネを何よりも愛おしく大切にしたいと思っている。  イオネに出会う前の自分はこうではなかった。別段誰の愛も必要ではなかったし、結婚にも興味はなかった。そもそも、王家を除けば富も地位も王国中のどの家よりも優れているコルネール家には政治的な結婚など必要ない。ただ、気が乗ればいつかは適当な相手とするだろうと、その程度の認識でいた。  それが、イオネに出会って世界が変わった。  ひと目見てこの女が欲しいと思った。気高く意志の強いスミレ色の瞳に、自分だけを映させたくなった。貴族らしく紳士的な振る舞いなどもせず、ただ恋を成就させるためだけになりふり構わず女を追いかける無様なアルヴィーゼ・コルネールなど、誰が想像できただろう。 「お前が俺をこんな男にしたんだぞ」  アルヴィーゼは深い眠りの中にいる妻に語りかけ、口付けをした。  イオネはアルヴィーゼを屈服させたがっているようだったが、そんな必要はない。  なぜならばアルヴィーゼは眠っている間でさえイオネに愛を捧げ、イオネの愛を乞い、更にはその肉体を求めて獣のように猛っている。それほどの愛執を受けながら、まだイオネはアルヴィーゼを負かしたいと思っているらしい。 「出会った瞬間から勝利はお前のものなのにな。俺のイオネ」  アルヴィーゼ・コルネールは、愛おしくて堪らない妻にもう一度口付けをして、満ち足りた気分で眠りについた。  そして、このとき既にふたりの娘が宿っていることを、公爵夫妻はまだ知らない。
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