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雨がしとしとと降り続ける夕暮れ。古い木造の家の中は、静まり返っていた。
その家まで、一人の中年の男がゆっくりと歩いてくる。彼の足取りは雨の日だからというだけで無く、重かった。
玄関先まで近付くと、家の瓦に反射する雨の音や湿気を帯びている独特の匂いに、どこか懐かしい気持ちになってくる。
鍵を開け、扉を開き、靴を脱いで家の中に一歩踏み入れると、男は自然と口を開いた。
「ただいま」
誰に言う訳でも無く、ただ静かに告げたその言葉は、家の中に吸い込まれていった。
だが、誰からも返事は無い。
まるで家自体が時の流れに取り残されてしまったかの様に、静寂が再び訪れる。
男は苦笑し、いつも母親がいた部屋へと足を向けた。
長い間、外での仕事に追われて帰る事が出来なかった為に、久し振りの帰省だ。
母は一人でこの古い家を守り続けていた。その背中を思い出すと、男の胸は少しだけ痛んだ。
「……」
無言で部屋の扉を開けると、そこには優しい笑顔を浮かべた母が座っていた。だが、その笑顔があまりにも穏やかで、そして優しすぎるからか……男は、辛そうに顔を歪める。
母の手元に目を落とすと、そこには一枚の写真立てが握られていた。
父の若かりし頃の写真だ。
もうこの世にはいない父を想い続ける母を見て、男はその小さな背中を撫でようと隣にそっと座り込む。
「母さん、ずっと一人で頑張ってくれてたんだよね。ごめん、もっと早くに帰ってくるべきだった」
その言葉に母は優しく微笑み、少しだけ頷く様にしてから目を閉じた。
その姿を見た男は、目に涙を溜めて話す。
「これからは、もう一人じゃないよ。俺がここにいるから」
母は目を開けると、もう一度微笑み……そして、静かにこう言った。
「おかえり、よく帰って来たね」
その一言が、男の心を暖かく包み込んだ。
彼はもう一度、心の中で「ただいま」と呟き、母の背中に手を伸ばす。
しかし、そこへと触れる直前に、母の姿は掻き消えた。
いつも、家で自分を待ってくれていた母。
しかし男は、その葬儀にも顔を出さなかった。
それでも。
今でも「ただいま」と言えば、母は穏やかに「おかえり」と返してくれた。
その事が、男の心に温かい気持ちを呼び覚ます。
家の中に灯された小さな明かりは、男を優しく照らし続ける。
そして、雨音だけが遠くで響いていた。
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