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2 チベットスナギツネ
チベットスナギツネに似た顔の方の音麿は、そのままぐいぐい松尾を夢の奥深くに連れ込んでいく。途中空間に裂け目があり、その向こうは真っ暗闇に見えたが、入ってみれば中は普段の、現実の日中と何ら変わらない明るさだった。
チベットスナギツネの国などではなく、普通に人が暮らしている街のようだ。上京した田舎者みたいになんとなく空を見上げてみると、巨大な蛇のような生き物が飛んでいくのが目に入る。松尾は何度か目を擦った。飛蚊症かと思ったのだ。雲間をすうっと縫うように、その物体は遠くへ空を泳ぎ消えていった。
「えっ、なにあれ怖……てかキモ……じゃねえわ……あれ龍か!? ドッドラゴン!」
音麿は、そうだよ〜、と軽い返事をした。松尾はその態度から、あんなのはこの世界じゃふつうなんだ、と悟った。
あてもわからず進む道すがら、音麿が話し出す。
「あのね、ジン。ぼくのこと、チベットスナギツネみたいだと思っているでしょ」
「そりゃあ……」
松尾は、何か弁解しようともごもごしている。音麿は構わず続けた。
「そんなわけだから、ぼくはここから排除されてしまいそうなの」
「いやどういうわけだよ」
「美しくないから、この世界にふさわしくないんだって」
「美しくないとまでは言ってないよ。ただ、俺の知ってる音麿はチベスナじゃなくて犬だからさ……」
音麿はしばらくきょとんとした。それを見て、松尾も真似てきょとんして見せる。
「……ぼくは犬だよ? まあいいけど……ジン、いや、この世界では松尾丸って呼んだ方がいいかな、雰囲気的に」
音麿はこほんと咳払いをして改めて話し始めた。
「松尾丸。道案内はぼくがするから、任せといてよ。ただ、ときどきぼくを攻撃してくるやつが出てくるから、そいつらを退治して欲しいんだ」
松尾は返事もしないまま、眉間に皺を寄せ、軽く首を傾げた。情報が足りないと思った。音麿の要求はあまりにも漠然としていて、その状況も、敵の特徴も何一つ掴めていない。相手のことがわからなければ、何の対策もしようがないじゃないか? 加えて、なぜ突然に妙なあだ名がつけられたのか。
「音麿。誰かの恨みを買うようなことでもたのか?」
「してないよぉ〜」
「敵はどんなタイミングで出てくるんだ」
「いきなり出てくるんだ! お散歩してたら突然だよ! でも、毎日とかじゃなくて、時々」
「……どんな見た目?」
松尾は質問を繰り返したが、音麿はまともな情報を寄越さなかった。犬なんだし、ある程度は仕方ないか、と松尾は音麿のしっぽに目を向けた。普段ブリタニースパニエルの音麿と接する時のように身を屈めなくても、このチベスナ音麿とは目が合うことに気付く。
――そうか、浮いてるんだ。地に足がついてない。
「あ、そうだね。ぼくは霊犬ってやつだから」
松尾の視線に応えるようにしっぽを少し振る音麿。強張っていた表情を緩ませ、得意げな顔をしながら、くるくる空中を漂って見せた。
松尾は手を叩いて、すごいすごいと褒めた。しっぽを振る音麿を横目に、周囲の様子を観察してみる。
馴染みのある風景と比べると、異様に古くさい街並み――というか、田園風景。でも、時代劇で見たようなものとも違う。松尾は歴史の資料集を思い出そうとした。何時代の特徴に当てはまるだろうか。テストはいつも一夜漬けだし、頭に浮かぶ色々の知識まがいのものはどれもこれもうろ覚えだ。これ以上は疲れてしまいそうだと、松尾は考えるのをやめた。
「わあーっ! かわいい犬だねっ」
突然右耳に突き刺さってきた少女の声。松尾がこの世界に来て初めて口をきく、人間。
松尾は半歩ほどたじろいだ。突然現れたことと、その声と見た目に驚いたのだ。
柔らかに波打つ明るい色の髪。パッチリ開いた大きな瞳――苦手な転校生・田澤にそっくりな風貌の少女は、警戒する松尾に無遠慮に近づいて、
「撫でてもいい!?」
と音麿を指した。
筒袖の、丈の短い着物に、白いファーのついた千歳緑のマントを羽織った少女。名を辰子というらしい。田澤と明らかに違うのは、髪が長くて、頭頂で束ねて団子にしているところ。髪は普通、一朝一夕ではそこまで伸びないはず。それなら別人と理解していいか、と松尾は困惑する気持ちを切り替えた。
「なあ音麿、霊犬ってそんなだれでもこう、手で触れられるようなもんなの?」
耳打ちする松尾に、音麿はふんふん頷いて答えた。
「いつの時代もカワイイって正義だよねー! ふわふわの霊犬……癒される〜!」
松尾はその言葉にいまいち共感を示せない。龍の存在が当たり前なら霊犬がいるのも当たり前なのか? 思わず渋い顔をした松尾に、音麿と辰子もまた少し渋い顔を向ける。
「松尾丸! ぼくのかわいさを疑っているのかい!」
「松尾丸って言うんだ! そういやなんか、すっきりした服着てるね。いいね!」
辰子の言葉に、この世界の人は学生服を知らないらしい、と松尾は理解した。制服なんて無個性の象徴みたいなものだ。べつに褒めるようなものでもないものを褒められて、なにか褒め返す気力もなく黙る松尾の顔を辰子はじっと見つめる。
「松尾丸は――背が高くてかっこいいね」
「かわいくはない」
松尾はぶっきらぼうに、やや噛み合わない返事をした。辰子はくすくす笑っている。
松尾は近くにあった手頃な岩に腰掛け、足りない頭を必死に掻き回して、音麿らの言う事や周りの様子から、状況を解そうと試みた。
時代劇で見たものとは少し違う気がする、古い街並み。しかし建築のテイストはおそらく和風と言っていい。松尾の知る時代劇というのは、浅葱色のだんだら羽織の組織物や、印籠が目に入らぬか、なんかのことである。とはいえそれらにも詳しいわけでは決してない。
「くっそ、有識者はいないのか! そうだ、阿部ちゃんなら(主にゲームの知識で)多少は俺より詳しいかもなぁ……」
「なにか知りたいことでもあるの?」
なぜか当然のように隣に座っている辰子が身を乗り出してくる。つい邪険にしたくなる気持ちを必死に抑え込み、松尾は尋ねた。
「色々あるけど……音麿を攻撃してくるやつってのが、何なのか知りたくてさ」
松尾はそう言いながら、いつも愛犬にそうしているように、音麿の実体のない体を撫でてみた。空気の塊のようなものに触れる感覚はあるものの、やはり毛の感触までは無い。
「うーん。べつに今の世って平和じゃないからね、常にあちこちで争いは起きてるみたいだし、これ! て言うのは難しい」
平和じゃないんだ、と松尾は慄いた。彼は、平和ボケと言われて久しい現実から呼び出されてきたのだ。明日……いや、もう数秒後に死ぬのかも。もしかするともう死んでるからこんなことに? この音麿も霊犬だしな……霊ってことは……、頭の中がそんなふうにごちゃごちゃ散らかり始める。
「最近動きが激しいのは、京より南方だよ。反乱があったんだって。なんか村が一個沈むくらいの洪水が起きて、その原因が祟りだのなんだのって、詳しいことはよくわかんないんだけど、要はその周辺住民たちと朝廷が責任の押し付け合いをしてるらしいの」
松尾は険しい顔をした。
この女の要領を得ない喋りに対してもそうだが、登場人物が軒並み阿呆と思った。祟りなどあるわけない。
「そう言われてみれば、ぼくが危ない目にあったとき、敵が来たのは大体南の方からだった気がする! 松尾丸、南の方に行って、敵を懲らしめてこようよ!」
「いや、南が危険なら北に逃げよう……」
松尾はハア〜っと大きな大きなため息をついた。
「わかった、じゃあ北に向かおう。馬とか要る?」
「いきなり馬なんか乗れるわけないだろ! 自転車は?」
なにそれ、と音麿も辰子も首を傾げた。
仕方なく、どこぞから借りてきた馬に乗る。音麿の顔パスで、馬と一緒になぜか武器や防具一式も借りることができた。ほとんど反りのない刀剣数振りに、端午の節句によく見るような鎧兜。松尾にはその使い方も身につけ方も全くわからなかったが、なんの装備もないよりはマシかと思い、とりあえず受け取る。
最初は馬から振り落とされそうになったが、徐々に慣れて不格好ながらもしがみついていられるようになった。
北へ向かう道中、関所と思しき場所で、やる気のなさそうな役人ひとりに声をかけられる。
「おいおい。そんな若造ばかりの小編成で、そっち側に行くのはよした方が……」
役人は、大欠伸をしながら、石柱に寄りかかったままそう忠告する。緊迫感のかけらもない様子に、松尾はシカトを決め込んで突破した。後ろからなにやら声が聞こえるが。
「おい! ここがどこだか知らんのか、白河関だぞ! これより先には……」
「ねえ、なんか言ってるよ?」
背中から聞こえる辰子の声に、松尾はばっさりと
「知らん! こういう面倒くさそうな場所はさっさと抜けた方がいい」
と答えた。根拠は特にない。強いて言うなら人と絡むのが面倒臭かった。
「大丈夫かな? 検非違使とか来たらヤだな」
辰子はちらちらと後ろを振り返ってみる。役人は追いかけては来なかった。やる気がないからだ。寄りかかっていた石柱のところへ戻り、
「止めたからなおれは! 知〜らね! 見なかったことにしよ!」
と居眠りを始めた。
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