1:悪魔はプラダを着ているか(4)

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 それは、入社したばかりだった浅野くんの始末書作成を手助けした、ということらしかった。  企画書はスイスイ書けても、総務部が提出をお願いするような類の書類は苦手、という社員はたくさんいる。そんな人の為に、今後は一人でできるようにと丁寧に指導することは、もはや私にとって日常業務の一環でしかない。だから浅野くんとそういうやり取りをしたことを覚えていなかったんだと、その点のみは納得したけれど、それがなぜ恋愛感情を抱かれることに繋がるのか、未だに私は理解できないでいる。 「あたしに打ち明ける気はない?」  口を堅く閉ざしたままの私に、芹香は威圧感を与えないようにと気遣ってくれたのか、やわらかい口調でそう尋ねた。  膝に乗せたままだった手を、強く握りしめる。言ってしまえ、話して助けてもらえと囁く声と、無関係の芹香に迷惑を掛けるなと諫める声が脳内に響く。 「ごめん、今はまだ……」  結局私が選んだのは、芹香を巻き込まないようにする道だった。 「でも、その内解決すると思うから」 「そっか……」  皿に盛られたパスタの山にフォークを刺し、くるくると丁寧に巻き付けて行く。芹香のそのしなやかな仕草を見つめながら、更に問い詰められる覚悟をして、次に続くであろう言葉を待った。 「まあ、咲葵がそう言うなら仕方ない。この話はおしまいね」  あっさりと引き下がる芹香。もっと問いただされる心づもりだったせいもあり、私は驚いて目を見張った。 「無理に聞き出すのはイヤだしさ。何か思うところもあったりするんでしょ?」  そんな私の視線に気付いた芹香が、少し困ったように微笑む。それを見て、私は芹香に対する申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになってしまった。  思うところなんて何もなくて、解決の糸口すらも掴めていない。こうして身を縮めている間に嵐が去ってくれないかと、神頼みにも似た思いを抱えるだけで、実際は何の行動も起こせていないのだ。 「なんか……本当にごめん」  そんな体たらくな状態を打ち明けることなんて、到底できるわけがない。  私の口から出たのは、自分を心配し支えようとしてくれている芹香の期待を裏切っているという罪悪感から湧いて出た、謝罪の言葉だけだった。 「いいのいいの。でも、本格的に駄目になる前にちゃんと相談してよね」 「ありがとう。そうやって気に掛けてくれてる人がいると、凄く心強い」 「うんうん、頼りにしてくれて構わないから!」  芹香は、胸をどん、と叩くジェスチャーをして自分の器の大きさをアピールする。そんな芹香の様子に、私は笑いを零した。 「……芹香、あの」 「それにしても、拓己もホントにはた迷惑な奴よね~」  私の発した声は、小さすぎたせいか店内に充満したざわめきにかき消されてしまう。それに気付かないままうんざりしたように話し出す芹香に、私は苦笑いを返すに留め、心に浮かんでいた言葉は奥へとしまい込んだ。 「高校時代もそうだったけど、好きになったら相手の都合なんてお構いなしに一直線に突っ走るんだから」  実は、芹香と浅野くんは同じ高校に通っていたらしく、同じ弓道部に所属していたそうだ。お互い別の大学に進学したことや、そもそも一学年の差があったこともあり、その縁は一度途切れてしまっていたのだけれど、社会人になって偶然にも同じ会社に就職し、再びこうして先輩後輩の関係を築くことになったのだ。 「で、今日も拓己はご機嫌伺いに来たの?」  各テーブルを巡回している、焼き立てパンの籠を抱えたウェイターを気にしながら、芹香が尋ねる。私はその問いかけに首を横に振って答えた。 「実は、今日会ってないんだ。私、午後からの出勤だったから」 「えー、咲葵が午後出勤するなんてめっずらし。……って、そうか、それじゃあ拓己、咲葵の顔見てから外回り出たかったのかな。今日はそのまま帰社せずに接待だって言ってたし」 「何のこと……?」  それ以上は聞きたくない、だけど芹香の愚痴にはなるべく付き合ってあげたい。  相反する気持ちに何とか折り合いをつけつつも恐る恐る先を促すと、芹香は待ってましたと言わんばかりにテーブルに肘をつき、前のめりの姿勢になった。 「あたしも今日は外回りでさ。拓己も、あたしのとは別件で近くの得意先に行く予定があったから、じゃあ途中まで一緒に、ってなってたんだ。なのに、そろそろ時間だっつってんのによ? 全然出ようとしなくってさぁ。なんとか宥めすかしてやっと出発したと思ったら、工事で道が混んでて大渋滞で!」 「それ、間に合ったの?」 「ギリギリアウトだったわよ。移動中に連絡入れといたし、付き合いの長い相手だったからその辺はまあ、お互い様ですから、なんつって笑って許してくれたから助かったけど」  ウェイターから全種類のパンを二つずつ取り分けてもらいながら、芹香の浅野くんに対する愚痴は続く。それを聞きながら、自分が彼の思いを受け入れられないのはこういうところだ、と改めて実感した。  突如として始まった猛烈なアタックに戸惑いはしたけれど、はっきりと好きになれないことは伝えたし、この嵐は小さな内に収束してくれると思っていた。でも浅野くんは、どんなに拒絶しても真っ直ぐな好意を迷いなく向けてくる。私はこれ以上どう対処すれば良いか分からなくなり、ほとほと困っていた。
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