1:悪魔はプラダを着ているか(3)

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 そもそも、アパレル業界にはそんなに興味はなかった。  それならなぜ、こうも地味な私がこんな煌びやかな世界に飛び込んだのか。総務の仕事ならあらゆる業界にあるのに、どうして自分の住む世界とはおそらく対極地に存在するであろうこの会社に就職したのかと言えば、ここの待遇が一番理想的だったからだ。  私は、自分のことはひとまず置いておき、唯一残った家族である母を最優先にしようと考えた。  できるだけ傍について、一人でいる時間を減らしてあげたい。日常生活に困るような思いもさせたくない。  出勤時間や休みに融通が利き、なおかつお給料も考えた金額以上のところとなると、この会社しかなかった。母を支えられるのは自分しかいないという責任感から選んだ道だった。  その母も亡くなり、この先はもう自分の為だけを思って生きていくことができる。もっと居心地の良さそうなところに就職し直すという手もあるにはあるけれど、やっぱりこのご時世。見た目だけでなく経歴すらもご多聞に漏れず地味な私なんかを、中途採用でとってくれる会社なんてあるだろうかと考えても、答えは火を見るより明らかだ。  とにかく、今の私には人生を賭けた大勝負に出られるほどの自信はないのだ。  それにせっかく縁あって飛び込んだ世界なのだから、もうちょっと何かを体得して自分の成長に繋げたい。そんな期待も込めつつ、何かと肌に合わない部分を感じながらもこうしてこの会社に勤め続けてきた。  実際、収穫はゼロではなかった。第一線で奮闘する他の社員をひっそりと陰で支える今の仕事は性に合っているとも思えるようになったし、そして何より、良き友人との出会いもあった。 「あ、やっぱりまだいた」  総務部のフロアにひょっこりと顔を出したのは、営業部の水留(みずとめ)芹香(せりか)だった。彼女は、私と同い年でありながらも既に販売促進課の課長の椅子に座っている、いわゆるバリキャリかつシゴデキ女子だ。以前新卒向けの会社説明会を総務部主体で企画した際、芹香も共に企画メンバーの一員として加わったのがきっかけで仲良くなった。見た目も生き方も、何もかもが正反対の私たちなのになぜか意気投合し、今では社内で余計な気遣いをせずとも心地よく付き合える親友とも言える存在だ。 「お疲れさま。今から帰り?」 「うん。咲葵(さき)はまだ掛かりそうかな」 「今日はもう上がろうと思って、片づけてたところ」 「そっか! さっすがあたし、グッドタイミング~。じゃあこれからご飯行かない?」  言いながら、スマホの画面をチラリとこちらに向ける芹香。そこには、飲食店と思しき外観画像と、割引クーポンが表示されていた。 「……それ、昨夜ラインで言ってたバーじゃないよね?」 「まっさか! 咲葵がアルコールに壊滅的に弱いの分かってて、お酒しかない店に誘うわけないじゃん。これはまた別口で見つけたの」  それを聞いて、ほっと胸をなでおろす。  入社当時の歓迎会で初めて飲酒を経験した際に分かったのだけれど、私にはアルコールに対する耐性が全く無い。その時は口当たりの優しいカクテルを一口二口飲んだ程度だったのにも関わらず、顔を真っ赤にして倒れてしまった。  せっかく設けてもらった酒席を台無しにしてしまったことを後悔した私は、お酒そのものはもちろん、ウイスキーボンボンのようにお酒がふんだんに使われているお菓子すら食べることも控えて、一切のアルコールを徹底的に回避してきたのだ。 「ここから二駅くらいのとこだけど、いい?」 「構わないけど、混んでないかな。私もうお腹ぺこぺこだから、大人しく待てるかどうか……」 「大丈夫! 予約はバッチリですから」  芹香の抜かりない手回しに、心から感謝した。さっきからお腹が鳴りやまず、困っていたのだ。 「じゃあ、さっさと片づけ終わらせちゃうね。休憩室で待っててよ」 「オッケー」  優雅に手を振りながらフロアを後にする芹香を見送る。予約を入れているのなら、時間に遅れるわけにはいかない。  私は書類が散在していたデスクの上をすっかり綺麗に片づけると、社用のスマートフォンからタイムレコードアプリを起動し、”退社”のボタンをタップした。  そして、久しぶりの芹香との外食に心躍らせながら、席を立とうとしたその時だった。 「あー、いたいた、良かったぁ!」  突然響いた声にびくりと肩を震わせ、部屋の入口に視線を向ける。  カウンターのそばに立っていたのは、二人の女性社員だった。各々の手には何かしらの書類が入っているであろう封筒が握られているのが分かって、私は、またいつものヤツが始まった、とこめかみを押さえた。
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