1:悪魔はプラダを着ているか(4)

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「『俺が昨夜言ったことは本気です。結婚して下さい』だったよね、確か」 「やめてってば! 今でもたまに夢に見てめちゃくちゃうなされるのに!」  周囲を気にしてトーンは低めに、それでもなるべく声を張って芹香を非難する。焦る私の様子がよほど滑稽だったのか、芹香はくすくすと笑いをこぼしていた。  浅野くんの求婚は決して酒席での無礼講なんかじゃなく、ただ隠していた本音が酒の力によって漏れ出ただけだった、という芹香の見解は正しかったようで、その日以来、浅野くんは社内で私を見つけると、時間が許す限り私を口説き落とそうとするようになった。  当然それは他の社員がいても気遣いなく行なわれるため、浅野くんの思いは立ちどころに社内に広まる結果となってしまったのだ。 「まあまあ、そう怒んないでよ。誰かからわき目も振らずに好かれるなんて、幸せなことなんだしさ」 「……好いてくれる相手によらない? それに、場はきちんと弁えるべきだと思うんだけど」 「あれ、そういうことするのってお昼休憩の時ぐらいなんじゃないの?」 「業務中かそうでないかってことじゃなく、単純に物質的な場のことを言ってるの。社内で、しかも皆が注目してる中であんな事するなんてどうかしてるよ」  注いでもらったお代わりの水を、じわじわと湧き上がってくる怒りにまかせて再び飲み干す。  芹香は、確かにね、と頷いて私が露わにした感情を肯定しながらも、その笑顔に少しだけ困惑の色を落とした。 「まあ、何て言うか……あれは拓己なりの牽制なんだよ、きっと。咲葵にちょっかい掛けるつもりの奴は俺を倒してから行け! みたいな」 「ええー……。だとしたら、尚更嫌なんですけど」  浅野くんへの嫌悪がまた一つ加算されていく。  決して店内の空調が原因ではない震えが全身を駆け抜け、私は自身を抱きしめるように腕を組んだ。 「そ、そんなに嫌? こう、愛されてる感が強くて、ちょっと気分良かったりしない?」 「しない! ああ~、やだなあ。私しばらく雲隠れしようかな」 「雲隠れって……。そんなことして原因が自分にあるって分かったら、拓己絶対に大荒れするじゃん……」 「今まで私が迷惑がってきたのを無視して突っ走って来た罰だと思ってくれればいいよ。ついでに嫌ってくれれば尚良し」 「う……。で、でもさ、そんなに頭ごなしに拒否るんじゃなくて、とりあえず、ほら、なんて言うのかな、その……」  不自然な様子で言葉を濁す芹香に、私は眉根を寄せて首を傾げる。  少しの間、視線の合わない芹香を見つめていたけれど、ふと彼女が言わんとしていることに気付いてしまい、私はあからさまに不機嫌な表情をしてみせた。 「まさか試しに浅野くんと付き合ってみろ、なんて言い出すんじゃないでしょうね。私、これっぽっちも好きじゃないのに」 「これっぽっちも、って……。ねえ、この際だからはっきり聞くけどさ、咲葵は拓己にあんだけ好き好き言われて、ホントにホンキで何とも思わないの?」 「本当に本気で何とも思わない」 「超絶とまではいかないけど容姿もそこそこだし、何より将来性だってある。あたし、なかなかいい物件だと思うんだ」 「物件て……。芹香だってよく分かってるでしょ、私が真剣に困ってるってこと」 「いやまあ、そりゃそうなんだけど。うーん、でもなぁ……」  芹香はゴニョゴニョと口ごもりながらも何かしら私に伝えようとしたけれど、頑なな態度を崩そうとしない私の様子を見て取ると、がっくりと項垂れた。 「分かった、ごめん。この件に関してはもう余計な口は挟まないようにするよ」 「そうしてくれると助かる。あと、誰に取り持ってもらっても私の気持ちは変わらないって、浅野くんに伝えておいてね」 「うっ……お見通しでしたか」  苦々しげに笑いながら、バツが悪そうに肩をすくめる芹香。何となしの予感に従って掛けたカマは、見事に的中していたようだ。 「いや、あたしずーっと断ってたんだよ? あたしじゃ絶対仲介なんてできないから、自力でどうにかしろって。でもあいつホントしつこくてさ」 「そういうしつこいところが嫌だってことも、改めてきつめに言っておいてくれる?」 「おお……うん、分かった」  あまりの嫌悪っぷりに、さすがの芹香も少し引いた様子だった。  でも、これくらい冷たい態度を取ったとしてもあっさり軽く乗り越えてくる浅野くんの姿が容易に想像できてしまい、思わずげんなりしてしまった。 「はー……。なんか、どっと疲れちゃった」 「この場にいないのにこっちの体力削るとか、拓己はホント怖い奴だわ」 「話題に上るだけでも精神的にダメージ食らうんだもん。どうにかならないかな、この状況」 「……悪い子じゃ、ないんだよ?」 「私には悪でしかないから……」  後輩を思っての芹香のフォローも、大人げなく押し返してしまう。私は自分の器の小ささに改めて気付かされ、ますますうちひしがれてしまった。 「……咲葵、鳴ってない?」 「え」 「スマホ。ほら、なんかピカピカ光ってるよ」  そう言って芹香が指さした先、少し開いていたバッグの隙間からは、着信を知らせるLEDの光が漏れ出していた。
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