1:悪魔はプラダを着ているか(5)

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1:悪魔はプラダを着ているか(5)

 スマートフォンの画面に目を走らせる。登録していれば名前が出るはずの箇所は空白で、並ぶ数字の羅列にも見覚えがない。 「ごめん、ちょっと出てもいいかな」 「どうぞどうぞ~」  いつもなら、応えることはしなかった。  知らない相手から個人の携帯電話に掛かってくることはまずないし、何より仕事以外の電話はあまり得意じゃないから、余計な精神的労力を使うのはなるべく避けたいと思っていた。  だけど今日に限って、なぜか私は普段の対応をしなかった。理由なんて特になくて、本当にただ何となく、電話が鳴った時の一連の動作をしてしまったのだ。 『もしもし、帆高(ほだか)咲葵(さき)様の携帯電話でしょうか』  当然のことながら、相手の声に聞き覚えはない。  私は考えなしに応答してしまったことを悔やみながらも、緊張してかすれる声で、問われたことを肯定する返事をした。 『夜分に申し訳ございません。”ラ・リューヌ”の暮野(くれの)と申します。今少し、お時間宜しいでしょうか』 「あ……」  ラ・リューヌと言えば、今朝申し込んだ例のオーベルジュの名だ。  私は、耳慣れない男性の声に固く収縮していた肩をすとんと落とし、ほっと胸をなで下ろした。 「大丈夫、です。えっと、当日の待ち合わせ場所とか、時間の確認でしょうか?」 『ええ、そのつもりでご連絡差し上げたのですが……。その前に、日程についてご相談をさせて頂きたいと思いまして』 「日程、ですか?来週の土曜日からの一泊二日でお願いしたかと……」 『ええ、そのように承っております。その上で、これは当店からの提案と申しますか……もし宜しければ、なのですが』  オーベルジュのスタッフだという、その暮野さんの話によると、今週木曜日、つまりあさってからの二泊三日の予約が急きょキャンセルになったとのこと。でも既に食材の手配をしており、このままでは無駄になってしまう為、その穴埋めというかたちではあるけれど、日程を繰り上げすることはできないかとこちらに打診が来たらしい。 「でも……私、平日は仕事がありますし、それにそんな急な話だとちょっと……」 『そうです、よね。申し訳ございません、こちらの都合で差し出がましいことを』 「いえ、そんな。私の方こそ、わざわざご連絡下さったのにいいお返事ができなくて」 『大丈夫ですよ、どうかお気になさらないで下さい。それでは来週の土曜日、お迎えに上がる場所と時間の確認をさせて頂いて宜しいでしょうか』 「あ……はい」  暮野さんと時間調整の話をしながら、私は少し残念な気持ちになっていた。その空いた日程に行ければいいのに、と思ったのだ。  でも今は経費精算の〆日が近く、やることは山積している。それを滞らせてまで休暇をとることはできない、そう判断しての辞退だったのだけれど、暮野さんと話し終えた後も、私の心はそちらの方へ囚われたままだった。 「行けばいいじゃん。行きなよ」  軽く事情を説明すると、芹香(せりか)はあっさりとそう言った。 「今の時期が忙しいこと、芹香も分かってるでしょ。領収書のチェックだってまだまだ全然片付いてないし」 「そんなの他の人に回せばいいよ。言いだしづらいなら、あたしから総務部長に話を付けてあげる」 「だけど忙しいのは私だけじゃなくて、総務部全体が」 「……もしもし、新山(にいやま)部長ですか?勤務時間外にすみません、今宜しいでしょうか」 「うそー……」  反論も聞かず、すぐさまその場で電話を掛け始めた芹香。  私がただ唖然としていたその間、ものの数分で話は片付いた。 「オッケーだって」 「えっ」 「有休届は部長が代理で出して処理しといてくれるらしいから、咲葵は今週はゆっくり休みなよ」 「ええっ!?」  トントン拍子どころか更に予想の上を行く結果に、私の口からは感嘆詞しか出てこない。 「ちょ、ちょっと待って、今週はって……今日まだ火曜日なんだけど」 「いいからほら、早くその……なんだっけ、なんとかってお店、連絡入れな」 「だけど、予約が空いたのは木曜日だよ? 明日は別に休まなくても」 「準備とか色々あるでしょうが。とにかくすぐお店に電話しないと、他の人にその枠取られちゃうよ!」 「あ……う、うん」  芹香に促され、我に返る。
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