2:ローマで休日を(2)

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 剪定され形のそろった生垣がなぞる小道を、紫藤さんと並んで辿りながら城を見上げた。白い外壁を飾る大輪のバラが佇まいに艶やかさを与えている。  私はいちいちその美しさに見入っては感嘆のため息をつき、また、紫藤さんにその種類や手入れの方法を尋ねたりした。一時かじった程度のガーデニング知識しかない私の質問など、さぞかし拙いと感じただろう。だけど紫藤さんは逐一丁寧に答えてくれ、また私が聞かなくても、それに付随したお役立ち知識をたくさん聞かせてくれた。  そうやって講義を受けながら一通り庭を見て回ったあと、私たちは庭園の端に設えられた東屋でしばしの休憩をとることにした。 「これ、紫藤さんが焼いたんですか?」  いぶし処理の施された風情ある金属脚のガラステーブルの上に、紫藤さんの淹れた琥珀色の紅茶と、一口大のサイズで焼き上げられたスコーンが並べられていく。少しばかりだったはずの空腹感は香ばしい匂いに刺激されたせいか、一気にその度合いを増したようだった。 「お口に合うと良いのですが」 「た、多分、合うと思います。そんな気がします」  紫藤さんが向かいの席に着いたのを確認して、私は待ってましたと言わんばかりに、両手を胸の前で合わせた。   「頂きます!」  こんなみっともない食事前の挨拶を、過去にしたことがあっただろうか。もっと年齢相応の、この場に応じた()()()()な振る舞いをするべきではないのか。そんな思いが頭をよぎったけれど、空腹をこれほど質の良いおやつで満たせるという喜びに抗うことはできなかった。  まず紅茶で口を潤してからスコーンを手に取り頬張る。さくりと軽い歯ごたえと優しく広がる甘さ、それと共に感じるこっくりとしたバターの香り。濃い風味であるにもかかわらず、飲み下した後の舌には油脂感がまったく残らないことに、私は感嘆の声を漏らした。 「お味はいかがですか」 「すごい、本当においしい。私、こんなにおいしいスコーンは初めてです!」 「それは良かった。玲が喜びます」 「え、都倉さんがですか?」  そう聞き返すと、なぜか紫藤さんは少し驚いたように瞳を丸くしてこちらを見つめ返した。 「あ、あの……?」 「……ああ、いえ。実は、このスコーンのレシピを作ったのは玲なのですよ。私はその指示通りに焼いただけなのです」 「へえぇ、そうだったんですか」  一瞬の沈黙の後、何事もなかったかのように元の穏やかな表情に戻る紫藤さん。私は小さなその変化に引っ掛かりを感じながらも、触れずに置いた。 「そう言えば、咲葵さんはバラを育てたことがあるのですか?」  思わず紅茶を吹き出しそうになった。急に話題を振られたからではない、当たり前のように下の名前で呼ばれたことにびっくりしたのだ。  ここのスタッフの人たちは言葉づかいや物腰は丁寧で紳士的なのに、なぜ距離感はこんなにもフレンドリーなのだろう。  そんなことを思いながらも、私は平静を装ってソーサーにティーカップを置いた。 「無いんです。いつか育ててみたいと思って色々やっていたこともあったんですけど、その……私、そういうのにあまり向いてないみたいで」  少し声のトーンを落としながらそう言うと、紫藤さんはその言葉だけで全てを察してくれたようだった。 「植物は……特にバラなどはそうですが、何かと世話の焼ける生き物ですからね。私も中途半端な構い方をして枯らせた事が何度もありました」 「えっ、紫藤さんにもそんな過去が……」  思いも寄らない体験談に私が大げさに驚いてみせると、紫藤さんは肩をすくめて小さく微笑んだ。 「何事にも失敗はつきものです。私も、ここに至るまではそれなりに苦労を重ねてきましたからね」 「そうだったんですか……」 「ですがそれを繰り返した分だけ、成功した時の喜びは大きくなる。これまでの失敗すら愛おしく思えるほどの達成感は、何物にも代えがたいですよ」  目を細めて庭を見つめる紫藤さんに、さすがは年の功、と言いそうになり、私は慌てて口を噤んだ。  紫藤さんは、都倉さんのように鮮烈でパッと目を引く華やかな雰囲気の人ではない。だけど、低く落ち着いた声、そして言葉や仕草一つひとつには厳かな風格が感じられて、どこか高貴な家の出身なのではないかと思わせるような空気感をまとっている。  何というか、多めに見積もったとして私と十歳くらいしか違わないように見えるのに、なぜか幾重にも重ねられた年輪のような重厚さを感じさせるのだ。  一体どんな人生を歩めば、ここまで人間性に深みを与えられるんだろう。
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