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2:ローマで休日を(4)
――大丈夫、怖がることはない。
その人はいつもそう言って、私の方へと手を伸ばす。
白い指先が頬に触れるか触れないか、というところまで来ると、私はこう思うのだ。
(ああだめだ、捕まってしまう)
そうして強く目をつむったところで、私は現実世界へと引き戻されて……。
「ここ、は……?」
見慣れない部屋の景色、嗅ぎ慣れない甘いバラの香り。私は口元を飾る夢の残滓――いわゆるヨダレというやつを拭いながら、辺りを見回した。
ああ、そうだ。私、お城に来たんだった。
ごく簡単に事情を思い出して、一つ息をつく。首を回してから伸びをし、もう一度大きく深呼吸をしてから、ソファから立ち上がった。
ベッド横のチェストに置いてあったアンティーク時計は、六時四十分を指し示していた。私が指定した夕食時間まであと二十分ほどだけど、確か奥平さんが声を掛けに来てくれると言っていたから、それまでに身支度を整えておかなくては。
「とりあえず、お化粧は直した方がいい……よね」
頬に軽く手をやりながら独り言ち、バッグを探って小さなポーチを取り出してから洗面所へ向かう。鏡に映った自分が、思ったほど酷い有り様ではなかったことに安堵しつつ、ポーチのジッパーを開いた。
私は物心ついた時から、毎日ではないけれど、同じ夢をたびたび見ている。
小さな少女である私に見知らぬ男性が触れようとするだけで、そのシーンの前後のストーリーが展開されることはない。たった数秒で終わってしまうような本当に短い夢なのだけれど、私はそれをひどく怖がっているのだ。
なぜ怯えているのか、その理由は分からない。
そのシチュエーションに犯罪めいた匂いがするからかとも考えたけれど、どうもそうではないらしい。というのも、こうしてその夢の情景を思い出したところで、現実の私が恐怖心を覚えることはないのだ。私が夢を怖がっているのではなく、夢の中の少女役の私がその状況に怯えている、と言えばしっくりくるだろうか。
今のところ実生活に支障を来すような影響はなく、ああまたいつものやつね、くらいに受け止められているので、これまでそれほど気に留めたことはなかった。
「でも今日は何だか……やけに景色がはっきり見えたなぁ」
眉用ペンシルをポーチにしまい、鏡の自分をじっと見つめて呟く。
雪が降っていた。池の水の表面にはうっすらと氷が張っていて、鹿威しもその動きを止めていた。
そして、少女に触れようとしているその男性の顔は、指先と同じくらいに白く透き通った肌をしていて……。
今までは視界がぼんやりとしていたこともあって、周囲の景色はともかく、目の前の男性の様子すら、ここまで認識したことはなかったのに。
これには何か意味があるのだろうか。私の心境の変化? それとももっと別の……
「……」
ああ、いけない。これは、つまらないことを気にしてグダグダと考え込んでしまうパターンに陥ってしまうやつだ。
私は頬をぱちぱちと叩いて気持ちを切り替えると、服にあからさまなシワが寄っていないことを確かめて洗面所を出た。
再度時間を確認すると、先ほどから二分ほど経過していた。化粧直しが五分以内で済むなんて夢のような話だと芹香が言っていたことを思い出す。メイクを完璧に仕上げるために毎朝五時前に起床している彼女に、一からのメイクでも二十分もかからずに済んでしまうという事実は、未だに打ち明けられていない。
ポーチをバッグに片付け、手持ち無沙汰になった私は部屋を見回した。
テレビを見る気にはならないし、スマホゲームに興じることもしたくない。そんなことをすれば、せっかくの貴族の娘気分が台無しになってしまいそうだ。
「ちょっと早いけど、食堂の方に降りてみようかな」
もう一度時計に目をやる。ここは三階だし、内装や調度品をじっくり見て楽しみながら向かえば、それなりにいい時間になるかもしれない。
そう考えて、私はコートツリーに掛けていた小さめのショルダーバッグを手に取った。
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