2:ローマで休日を(5)

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 重厚なつくりの大きな柱時計が、時を刻む音を響かせている。針が指し示す現在の時刻は、七時二十五分だった。  つまり、紫藤さんたちがここを出てから二十分ちょっと過ぎたことになる。  あれから何の音沙汰もないまま、私はここで一人ぼんやりと座っていた。何か理由をつけて席を立っても良かったのに、何となく機を逸してしまっていた。 「……はあ」  ため息がこぼれる。その吐息の音は意外に大きく響いていて、食堂の静けさが一層際立つように感じる。  営業を開始すれば、きっとここは賑わうに違いない。こんな静寂の中で食事ができるのは、もうこの機会を逃せばなくなるんだろう。  この二十分ほどの間でそんなことを考えたのは、たぶんこれで三度目だ。そろそろ手持ち無沙汰と空腹を耐えるにも限界がきた、と感じたその時だった。 「すまない、準備に手間取ってしまって」  どうやら私はぼんやりすることに集中しすぎていたらしく、人が近づいてくる気配に全く気付けないでいたようだ。はたと我に返り顔を上げると、都倉さんが私の向かいの席に着く姿が目に入った。 「あ、あの」 「オーナーの代わりに私が同伴を務めるよ。彼女に任せていては、更に余計なことを言いかねないから」  困ったようなその笑顔がまた眩しい。さらりと揺れる前髪がとても色っぽい。コックコートで男前度が数割増しだと言ったけれど、ブルーグレーのシャツに細かなヘリンボーン模様の上品なジャケットを羽織ったフォーマル姿は、その何倍もかっこいい。もう私に対する言葉遣いが丁寧なものではなくなってしまっていることすら気にならないほど、都倉さんのイケメンオーラに圧倒された私は、黙ってうなずくことしかできなかった。 「食前酒はいかがなさいますか」  いつの間にか都倉さんの後ろに控えていた紫藤さんがそう尋ねる。 「あ、わ、私は……」 「彼女にはジンジャーエールを。私にはいつものでいい」  アルコールがダメなことはもう話していたんだろうか。都倉さんとの会話を思い出そうと記憶を探るけれど、何しろ起こそうとする行動すべてが手に付かず、集中できない。  さっきは、自分を貴族の娘などに見立てて書き物なんかを楽しんでいたけれど、とんでもない事だと気付いた。そんな余裕ある高貴な振る舞いなんて、この人の前ではできそうにない。そう、私は平民だ。何を間違ったかこんなきれいなお城に迷い込み、その主である伯爵から思わぬもてなしを受けて困惑する農家の娘、という設定がお似合いなんだ。  ああ、何だか脳の回路が混線して思考が定まらない。何だっけ、私何のことを考えて…… 「大丈夫か?」 「へっ?」 「顔が赤いが……。もし体調が優れないのなら」 「い、いえ、大丈夫です。こ、こういうかしこまった席は初めてで、その、緊張してしまうというか」  本当は都倉さんのイケメン具合に恐れおののいているなんてことは言えるはずもない。とりあえずつっかえながらもそう答えると、都倉さんは一瞬キョトンとした顔で私を見つめた後、肩を揺らして笑い始めた。 「あ、えっ、と……。私、何かおかしなことを……?」  慌ててそう尋ねると、ますますおかしさが増したようで、都倉さんは頭を垂れながら声を殺すようにして笑い出してしまった。
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