1:悪魔はプラダを着ているか(3)

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 出勤時間は違えど、仕事の内容に変わりはない。私は自分のデスクに向かいながら、一日で溜まった仕事の内、今日中に終わらせておきたいものをさばいていた。  私が今勤めているこの会社は、新進気鋭のアパレルメーカーで……なんて、こんな風に言うと私がいかにもおしゃれな、流行の最前線でファッションを楽しんでいる人間のように聞こえるかもしれない。でも仕事内容からもお察しの通り、私が所属しているのは総務部で、いわゆる縁の下の力持ち、各部署を引き立て支える役割を担っている。  昨日、新山部長から頼まれた”経理のお手伝い”も私に与えられた役割の一部だ。毎月締め日の近い時期になると、当然のごとく提出される領収書の数がかなり増える。その為、経理の担当者だけではなかなか整理しきれず、私の方に手伝いの要請が来るのだ。 「さて……」  一息ついて時計を見上げる。六時十五分を指す針を確認してから、片づけを始めた。  残業すればきちんと手当は出る。だけどこの会社では、就業時間内に仕事を終わらせられないのは悪であるかのような理念を掲げており、総務部には特に厳しく「残業ダメ!」というお達しが下っていた。だから、最前線で活躍している看板部署はさておいて、私たちのような影の者は、そうおいそれと居残ることはできない環境にあるのだ。  昨日は自宅でやってもさほど問題ない仕事を持ち帰り、宅飲みならぬ”宅残業”をしたけれど、さすがにこの領収書の束を持ち帰るのはコンプライアンス的にもまずいだろう。だからと言って、これ以上居残りすると自分が叱られるだけでなく、部長も監督不行き届きとかナントカで注意を受けることになり、迷惑をかけてしまうかもしれない。 「……あーあ」  やや大げさな音量でついたため息を誰も拾ってくれないのは、総務部のフロアに残っているのが私一人だけだからだ。  フレックスタイムを使う時期を間違えた、という後悔の念がチラチラと頭を過ったのは、今日だけで何度目だろうか。そして、こういうものは思い立った時に使うべきで、今日の自分にとっては必要なことだった、と言い聞かせたのも。 「疲れたなあ」  独り言をつぶやきながら伝票と領収書を簡単にまとめ、ファイルに適当に放り込んでいく。  その動きに合わせて、自分の爪がキラキラと濡れたような光を放つ。薄く割れやすい爪を防護する透明のマニキュアが、蛍光灯を反射しているのだ。 ――いいっすね、そういうの。俺、帆高さんみたいな素朴な人って好きなんです。  それを引き金に、あまり思い出したくないセリフが頭の中で再生される。  途端に焦燥感とも羞恥心ともとれるよく分からない感情がこみ上げてきたのを感じて、私はわざとバタバタ音を立てて片づけを進める手を速めた。  良く言えばナチュラル、悪く言えば地味。服やアクセサリーを選ぶのも”シンプルであること”を基準にしているし、メイクの色合いも肌になじむものだけで統一している。爪に塗られたこのマニキュアも、自分を美しく個性的に飾るためではなく、守るためだけのものでしかない。  社風を損なわず、かと言って自分なりのカラーを出すことも忘れてはいけない、といういわゆるドレスコードのようなものが暗黙の内に設定されている花形部署とは事情が違って、こちらはその辺に関してはずいぶんと気が楽だとは思っている。
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