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Ⅱ. 困惑
しばらく家で穏やかに過ごそうとしたが、そうもいかなかった。
部長から「会社に早く復帰してくれ」と連絡が入ったのだ。
仕事で貢献できる自信がないものの体調は回復していた。
結局、押し切られるかたちで明日から出社すると約束した。
直人は不安を払拭するように言った。
「こんな状態の俺でも呼んでくれるんだ、ありがたいことだよ。それに、慣れた環境にいれば思い出すことがあるかもしれないし」
それに対して、マリアはひどく心配する。
「まだ休んでた方がいいわ…だってあなた、声や仕草が以前と違ってて…そのままだと、きっと会社で失敗しそうだもの」
その言葉に眉をひそめる直人。
「前の俺と何か違うのか?」
「私、同じ会社にいたから、あなたがどんなだったか知ってる。会社では今よりもっと威圧感のある低い声なの。それと、自分を大きく見せようとしてたのね。話をする時、身振り手振りも付けてた…」
家の外では演じてたというのか。
戸惑いを感じつつも、マリアからのアドバイスを受け入れる。
声を低く調整し、体の動きも意識するようにした。
***
直人が出社すると、瞬く間に社員たちが集まってきた。
「三上課長、お帰りなさい」と、歓迎ムードだ。
それに、配慮してくれたのだろう。
業務は軽い事務処理だけだった。
拍子抜けするくらい順調な滑り出しだ。
声や仕草に対しても特に指摘を受けることはなかった。
頃合いを見計らって部長は別室に直人を呼んだ。
「この度はご迷惑をお掛けして…」と深々頭を下げるのを部長は止める。
「おいおい、そんな弱気なタイプじゃなかっただろ? 前はもっと野心があふれていて堂々としてたもんだ。仕事の方は…問題ないか?」
「ええ、なんとか」と言うと、困ったような表情になった。
「そうか…まだ思い出せないようなら、進行中のプロジェクトは別の者に任せることになるが…」
今の直人には為す術もなく、すんなり「はい…」と受け入れる。
その後、出張を共にした吉沢蓮のことを尋ねた。
ずっと気になっていたのだ。
「まだ居場所がつかめん。どこに消えちまったんだろうな。吉沢は前から出張後に2週間の長期休暇を取ってフランス滞在することになっていたが、音沙汰がないんだ」
「旅行の予定だったんですか?」
「そうだろうな。今まで長期で休みなんか取らなかったから許可した…それがこんなことになるなんて…。君とは同期でいいライバル関係の努力家タイプなんだ」
「そうですか…ご家族は?」
「身寄りもなく結婚もしてない」
吉沢蓮…孤独な男だったのだろうか?
休みを取ってどこに行くつもりだったのだろう?
無事に見つかってほしいと願う。
数人の部下がランチに誘ってくれて、小さな洋食屋に入った。
「三上課長はビーフシチューが好きだって言ってたんでここにしたんです。奥さんが作ったのが一番だってのろけてましたよ。イギリスの料理はイマイチだったとか」
「イギリス?」
「課長は帰国子女なんですよ。聞いてませんか? ロンドンに住んでた時にフランス人の友達から言葉を教わったって。だから英語もフランス語もペラペラなんです」
「そ…そうなのか。確かに、言葉は現地で問題なかった」
マリアの言うことと所々食い違っているような…。
好物は肉じゃがだったはずで、フランス語もマリアと一緒に学んだと。
俺の勘違いだったか…?
確かなのは、マリアの作った和食の方がずっと好きだということだ。
家に帰ってから、そのことについては確認しなかった。
なんとなく今の幸せが壊れてしまう気がしたのだ。
たいした話でもないし…。
代わりに部長から聞いた吉沢の状況を伝えたところ―。
マリアは「その人のこと、あまり知らないの」と、素っ気なかった。
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