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Ⅲ. 疑念
翌日はプロジェクトの報告会議があった。
仕方がないとわかっていてもやりきれない思いが込み上げる。
本来なら皆の前で発表する役目は自分だったのだ。
会議が終わり、部屋を出て廊下を歩いていると、突然誰かが腕をつかんだ。
強引に近くの給湯室に引っ張られる。
そこには勝気そうな美人が意味ありげに笑っていた。
さっきの会議にも出ていて、チラチラこっちを見てたっけ…。
「ねえ、私のこと、忘れちゃった?」
「ごめん、誰のことも覚えていなくて」と伝えると―。
「ふーん、記憶失くしたって本当なんだぁ」
甘えた声で接近してくるので、思わず後ずさりした。
その様子に女は不機嫌な顔になる。
「私たち、付き合ってたのよ」と爆弾発言が飛び出した。
付き合って…?
「何を言ってるんだ? 俺には妻がいる」
直人は驚いて突っぱねた。
「知ってる。私、マリアと友だちだもん。あなたたちの結婚式にも出席してた。だから不倫ってこと。割り切った仲だったの」
何を言っているんだ?
そんなわけない、俺はマリアだけを…。
「でも、私、前の自信たっぷりのあなたが好きだった。今は地味ってゆうか、出世コースからも外れそうだし。だから別れてって言おうとしたんだけど、そもそも覚えてないんじゃあね」
女は言いたいことだけ言って去っていった。
俺はマリアを裏切っていた?
ショックだった。
自分という人間が信用できなかった。
ふらつきながら休憩室の前を通りかかると、話し声がする。
それは昨日一緒にランチをしたメンバーだった。
「なんか課長、変わっちまったよな」
自分について話していると直感し、直人は陰に隠れた。
「あの人、牙が取れたっていうか…簡単な事務で満足してるとはなぁ」
「ああ、おとなしくなって今じゃ別人だよな」
「俺は今の方が好きだけどな、優しいじゃん」
「はぁ? そんなのリーダーとしてはダメだろ?」
「まぁな、今の三上さんは吉沢さんっぽいよな? あの人、厳しい指導とかできなくて、昇進逃したんだって」
「吉沢さんといえば…三上さんに殺されたんじゃないかって噂聞いたか?」
「何だよそれ、怖いこと言うなよ」
「噂だから…ほら、三上さんと吉沢さんでマリアさんを取り合ってただろ? 結局、勝ち取って結婚したのは三上さん。でも、実は吉沢さんとマリアさん、その後も会ってたって…」
「えぇ?! マジで?」
「それがバレて、三上さん、『吉沢を殺す』って言ったとか言わないとか…」
「ひぇ~、修羅場だな!」
直人はそのまま踵を返し、自分のデスクに戻った。
俺は課長でリーダー的存在で、野心家なのか?
優しくて不器用な面があるのか?
フランス語はどこで学んだのか?
俺と吉沢でマリアを奪い合い、結婚したのは俺だった。
その後に俺は吉沢を憎み、殺した?
何かおかしい。
頭が混乱していた。
***
帰宅後、マリアを抱きしめて心が癒されるのを感じた。
「皆、うわべでは優しいけど…仮面をかぶってるんだ。自分でも自分がわからない…」
…会社の人間は信用できない、理解者は君だけだ。
「ねえ…私考えたんだけど、赤ちゃんが生まれたら、どこか遠い国で静かに暮らさない?」
三人でどこか遠くか…すごくいいアイデアだ。
それから未来について話し合った。
どんな場所でどんな暮らしをしたいか、生まれてくる子どもの名前などを。
そうしているうちに、再び生きる力が満ちるのを感じたのだ。
***
その晩、不気味な夢を見た。
男の首をロープで絞め殺そうとする夢。
相手はもがき這いつくばって逃げようとするのを容赦なく追いかけた。
力を込めて相手の息を止めにかかる。
暗くて見えなかった相手の顔に光が当たり、衝撃を受けた。
自分の顔だったのだ。
俺が俺自身を殺している?
そこで目を覚ました。
生々しい夢だった。
心の奥底に潜む悪を垣間見たようだ。
隣にマリアの姿はなく、起きて部屋を出ると―。
すでにキッチンで朝食の準備をしていた。
「顔色が悪いわよ」と不安そうな表情のマリアに「大丈夫だ」と笑いかけた。
週末の朝、のんびりトーストを食べながら、マリアを見つめる。
きれいにメイクした顔を見て、不思議に思った。
「どこかに出かけるの?」
「ええ、今日はごちそうを作りたいから、電車に乗ってデパ地下でも行ってこようと思ってるの」
「俺も一緒に行こうか?」
「いいの。あなたは疲れてるでしょ、ひとりで行ってくるわ」
その時、ニュースが耳に入り、直人はテレビにくぎ付けになった。
パリ郊外の山中で日本人男性の遺体が発見されたという報道だった。
名前は公表されなかったが、直人の胸には不安が広がった。
「これって…吉沢蓮じゃないか…?」
彼は死んでいたのか?
直人は悲痛な面持ちでマリアを見ると―。
「まさか…」とつぶやき、明らかに動揺していたのだった。
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