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Ⅰ. 帰還
瞼に陽の光を感じ、男はゆっくりと目を開けた。
小さな部屋の狭いベッドで横たわっていた。
ここは…?
そよ風に揺れるカーテンの傍で人影が振り返る。
「目を覚ましたのね」とフランス語、服装からして看護師か。
「ここは病院? いったい何があったんですか?」
男が尋ね、看護師は微笑んだ。
「フランス語上手ね。あなたパリでデモに巻き込まれたらしいわ。気を失って、この病院へ運ばれたの。3日間眠ったままだったのよ」
気を失っていた…?
俺は今までどこでどうしていたんだ?
いや、それよりも…。
何ひとつ思い出せなかった。
自分が何者かさえ。
医師の説明では記憶喪失とのことだった。
明日元に戻ることもあるし、このまま戻らない可能性もあるという。
幸い、ジャケットの内ポケットからパスポートや免許証が見つかった。
それにより、三上直人、日本国籍の34歳と判明。
大使館と連携し、徐々に他の詳細がわかったのだった。
商社勤務の直人がパリ出張に来たのは1か月程前。
吉沢蓮という同僚と一緒だった。
本来なら10日間で仕事を終え、帰国する予定のところ―。
二人とも突如として行方知れずになっていた。
その2週間後、道端で倒れている直人が発見されたのだ。
蓮は今も捜索されているという。
***
翌週、直人は帰国が許されることになった。
成田行きの飛行機で日本に到着し、電車を乗り継いで自宅住所へ向かう。
たどり着いたのは、都内にある高層マンションの一室。
エレベーターにあった鏡に自分の姿を映した。
何度か確認したが、眉は凛々しく意志が強そうで悪くない顔だ。
玄関の前に立ち、深く息を吸った。
結婚して一年になる妻が待っているらしい。
自分の家という実感はまるで湧かないが、帰る場所は他にない。
勇気を振り絞ってドアを開けた。
出迎えたのは息を呑むほどの美しい女性だった。
彫りの深い顔立ちに潤んだ瞳、微かに震える長いまつ毛、薄い唇。
肩より長い艶やかな漆黒の髪。
この人が俺の妻、マリア。
「おかえりなさい」と、華奢な腕をまわす。
「無事でよかった…」
ぎこちなく柔らかな体を受け止め、反射的に「ただいま」と口にした。
髪からほのかに感じるシャンプーの香り。
「マリア…さん」
直人の顔を両手で包むように触り、目を見開くマリア。
「本当に記憶がないのね? 私のことは呼び捨てでいいのよ」
「すまない…何も覚えていなくて」と、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
マリアは笑顔を取り繕った。
「きっとすぐ思い出すわ。私たちのこと全部」
夕食の支度は整っていて、和食の小鉢がいくつも並んでいた。
中でも、直人の好物は肉じゃがだという。
ダイニングで向かい合い、二人は赤ワインでささやかな乾杯を交わした。
味はどれも絶品だった。
「飲まないの?」
グラスに口を付けないマリアを不思議に思って声を掛けた。
「これは乾杯用に入れただけ」と微笑み、自分のお腹に手を当てる。
「私、妊娠してるのよ。今、3ヶ月」
美しい妻だけじゃなく、子どもまで…。
なんて恵まれた人生なんだ。
これで記憶を取り戻せたら最高なのに。
二人の隙間を埋めるように、マリアは過去について懸命に語った。
職場で出会い、不器用な優しさに惹かれたこと。
フランス語の勉強を一緒に励んだこと。
結婚を機に会社を退職したことなど。
マリアを見つめているうち―。
彼女を愛していたのは間違いないと確信する。
なぜなら、今まさに夢中になっているのだから。
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