File No.1 イントネーション

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File No.1 イントネーション

 東海地方出身の僕が都心に出てきたのは、別に都会に憧れがあったわけではない。ただ、自分の家にこれ以上居たくなかったからだ。少々面倒な家族から逃亡したかった。  卑怯と言われても、これが多分、誰にとっても一番良かったのだと僕は今でも思っている。 「おい、藍、無事進級できそうか?」  広々としたキャンパス。ようやく試験期間が終わり、学生にとっては長い春休みが待つばかり。僕は明日が締め切りのレポートを教授のところに提出してきたところだ。ちゃんと提出証ももらってある。 「竜崎。ああ、大丈夫。塩谷教授は提出さえすればいいって言ってたし」  実はこれが大きな落とし穴だったのだが、そんなことをこの時の僕はなにも知らなかった。 「いいな。おまえのところはそんな優しい教授ばかりで」 「でも竜崎も進級できそうなんだろ?」  大学は入学すれば後は遊べる。なんて受験生の間は思っていたが、そんなことは全くなかった。  特に工学系は厳しい(と、僕は思っている)。1年の間はまだしも、2年になってからは専門分野も増えてきて、毎日データを取ったり、思い通りにならなかったらまたやり直したりとバイトに行く時間も削られるほどだ。学科は違えど、同じ理工学部の竜崎も同様だろう。 「ああ、俺はまあ、要領だけはいいからな」  と、二重瞼の双眸を細める。そうは言ってるが、竜崎は優秀なんだ。  竜崎を認識したのは大学を入学してすぐのこと。一年のほとんどは教養課程なので授業はほぼ同じだった。けど、友人になるには少し時間がかかった。五月の連休が終わって少したってからのこと。階段教室で偶然隣になった時、話しかけてきたのは竜崎の方だった。 「君、美山(みやま)君だっけ。どこ出身? なんとなくイントネーションが違う気がしたんだが」  自分では標準語を話していたつもりだから少し驚いた。でも別に隠しているわけではない。竜崎は東京出身らしいので、僕の名古屋弁だか三河弁だかの癖は見抜かれたわけだ。 「藍でいいよ。うん、愛知出身だから。まあ、田舎ものだよ」  竜崎は僕より10センチくらい背が高くてがっしり筋肉質タイプだ。(後日聞いたのだが、部活はハンドボールというややマイナーな球技をしていたらしい。県大会は常連ということで、運動神経は見た目通りの抜群だったよう)。  顔立ちは濃いめの洋風顔。太い眉とくぼみ加減の二重双眸が日本人離れしている。高い鼻と凛々しい唇も形よく配置されてて、イタリアかスペインの俳優にいそうだった。  彼は男子学生にも女子学生にも友達が多く、目立つし所謂モテていた。どこを取っても普通の僕にしてみれば、遠目から見るような存在だったんだ。  だから、まだ席が他にあるのに(彼と親しいような連中の周りも空いていたのに)僕の隣に来た時は、驚いたし不思議な気持ちだった。 「でも、俺は藍のイントネーション好きだな」  グレーシャツに黒のジャケットを羽織った竜崎はそう言って口元を緩ませる。僕は図らずも聞こえてしまった。僕の胸がキュンと鳴るのを。
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