File No.7 命令

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File No.7 命令

 僕が憂鬱に思っていることがもう一つある。それは、大事なものを失くしてしまったからだ。 『昨日、エジプトから帰ってきたところなんだ』  それは知っていた。だから春休み中は会えないとがっかりしてたんだけど。  竜崎は、バイト先のカフェにやって来た。目を輝かせて。  エジプトは竜崎の憧れの地だった。ピラミッドやスフィンクスに象徴される古代の建築技術に魅せられたのが、理工学部土木工学科を選んだ理由だ。  その地にバイトで貯めたお金で飛び立った。かなりの貧乏旅行だったようだが、僕は無事に帰ってきてくれたことが素直に嬉しかった。 『で、こんなもんだけど、お土産』  そう言って、まだカフェエプロンを着け仕事中の僕にくれたのが、『ピラミッドのキーホルダー』だった。なんとも素朴なお土産だが、クリスタルのピラミッドが綺麗で思わず見とれてしまった。  なにより竜崎から初めてもらったものだ。文字通り僕の宝物になった。キーホルダーを乗せた手のひらが熱く感じたよ。  ――――それなのに、どこかに落としてしまった。  どこかがどこなのか、僕には覚えがあった。教授の部屋だ。あの時、僕はとにかく慌てていた。あの部屋から1秒でも早く逃げ出したかったんだ。扉を出ようとした時、鞄が引っ掛かった感覚があったけど、無理やり出てきてしまった。  落としたとしたら、その時だと僕は思っている。自分の部屋に戻ってきてすぐ気が付いたけど、教授の部屋に戻ることはとても出来なかった。  土屋さんに聞こうかとも思ったけれど、教授の部屋で二人きりになったことを知られたくない。  ――――僕の宝物だったのに。竜崎にも申し訳ないし……。  そんなことまであって、僕の落ち込みようは酷かったんだ。竜崎の前では元気にしないとと思っていたのに、すぐにバレてしまうぐらいには。  それでもキラキラの新入生たちが、慣れないキャンパスを物見遊山のていでキョロキョロしながら行き交う間は何事もなく過ぎていった。  部活動やサークルへの勧誘で忙しそうな連中が少なくなってきた頃だ。僕が恐れていた時がついにきてしまった。 「藍、携帯鳴ってるみたいだぞ」  階段教室の1番後ろ。隣に座る竜崎が僕に小声で知らせてくれた。3年になると、益々同じ講義を聞くことが少なくなってしまった。この日は貴重なコマだったのだ。  スマホは当然マナーモードになっているのだが、僕の鞄がブルブルと震えたのを竜崎が感じて教えてくれた。 「あ、うん」  振動が短かったので、メールのようだ。嫌な予感しかしなかった。あれからひと月ほど経っている。もしかしたら、次の誘いは来ないんじゃないか。新入生に新たなターゲットが出来たんじゃないか。なんて僕はそんな希望的観測に縋っていたのだけれど。  ――――あ……。  そうっと鞄から取り出し、画面を覗く。僕は息を呑む。それから、心と同時に首が折れそうになるのを懸命に耐えた。うっかりすると涙が落ちそうだ。  ――――やっぱり、そんな甘くはないか。  今は授業中だ。しかも隣には竜崎がいる。僕はなんでもなかったようにスマホを鞄に閉まった。 『今度の土曜日の午後六時過ぎ、研究室においで。いいものを見せてあげよう』  教授からの誘い……いや命令だった。
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