File No.8 弱い奴

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File No.8 弱い奴

 片面だけのすり鉢の底に位置する教壇で、准教授がポケットからスマホを取り出した。多分アラームが終了時刻を告げたのだろう。  一瞥すると、階段状に座る学生たちの方を向いた。みな、次の言葉がなにかを十分に承知している。 「じゃあ、今日はここまで。次の項は大事なとこだから、予習しておくように」  パタンとノートPCの蓋を閉じる。そこかしこでため息やら早速会話始める声が聞こえてきた。竜崎と僕もパソコンを閉じ、それ用の鞄にねじ込んだ。 「よし、昼飯の時間だ。行こうぜ」 「あ、うん……」  そうか、もう正午を過ぎている。いつもなら、空腹にくらくらしている時間なんだ。でも、正直食欲はわかなかった。 「どうした? なんかあったのか? さっきの……メールかなにか?」  心配そうに眉を寄せ、竜崎が僕に聞いてきた。『なんかあったのか』、今日だけでなく、4月に入ってから何度か尋ねてきた言葉だ。僕はその都度、なにもないと返答していた。 「な、なんでもないよ……」 「嘘だ。いい加減、俺だって気付いてるよ。藍、なにか困って……」 「なにもないよっ。お腹の調子が悪いだけだ」  思わず声を荒げてしまった。まだ教室に残っていた数人が振り返ったのがわかる。 「だ、だから、お昼は抜くよ。ごめん」  僕は竜崎の顔を見ることができなかった。きっと呆れただろう。心配してくれてるのに、それを拒否するような冷たい言い方。僕のこと嫌いになったかもしれない。  ――――でも、今の状態を話したら、絶対嫌われる。それどころか、気持ち悪いって思われるかもしれない。  それに、こんなことに巻き込みたくないのもあった。竜崎は塩谷教授の授業は取っていないけれど、教授は理工学部の副部長だ。睨まれるようなことがあっていいことはない。  僕はそのまま顔も上げず、ひたすら自分の安アパートに向かった。とにかく部屋に戻りたかった。だってもう、涙が溢れてきて前がよく見えないくらいになってたから。  ひとり1Kのアパートに戻ってきた。大学そばの学生専用のアパートだ。だから相当に古い。  ただ2年前、畳敷きの6畳間だったのを今風のフローリングに改装したようで古い割には綺麗だった。風呂はないが洗面台とトイレは各部屋にあった。僕のような貧乏学生にはもったいないほどの良物件だ。  僕は壁際に寄せてあるベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。こんな姿、本当に誰にも見られたくない。もしこの場に父親がいたら、容赦なく殴られそうだ。  実家にいる父親は、昭和からタイムスリップしたみたいな不適切にもほどがあるヤツだった。優秀な営業マンだったかは知らないが、確かに稼ぎは良かったよう。けど、実際はケチだから家庭に回ってこなく、僕も、兄貴や姉貴も自分ちが裕福だったなんてずっと知らなかった。  母さんも化粧品一つ満足に買えないのでパートに出てたし、なにか口答えすると、父親は暴力に訴えてきた。つまり、DV野郎なんだ。  世に言う、酒乱や奥さんを骨折させるほど酷くはなかったけど、家族みんな父親のことは恐れていたし、機嫌が悪くならないよう本当に気を使っていた。  それにあいつは、僕らを自分の思い通りの進路に進ませたがった。自分の青写真の通りじゃないと途端に切れて暴れる。その矛先は大抵が母親だった。 『とにかく、あんたたちは大学を理由に外に出なさい。自由になるためだと思って頑張るんだよ』  僕らがこの家から出て行けば、母さんも自由になれる。僕らはそう信じて、頑張ったんだ。  今、僕も兄貴たちも父親とは音信不通に近い。昨年離婚し、現在は正社員に登用され頑張ってる母さんとだけは連絡を取り、会ってるけど。 『男らしくない。女みたいに弱い奴だ』  父親にはいつもそう言われていた。藍は気弱で優しすぎると。でも、これが性格だから仕方ない。  僕が男性が好きだってのも、ずっと悪いことなのだと考えて隠してきた。父親が知ったら、殺されても全然不思議じゃなかったから。
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