ep1.猫を被っていた桐生課長

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「実は日々猫を被ってて、素の性格は最低なんだ。あんたの事は絶対に好きにはならないし、性欲の捌け口にするかもしれない。それでもいいならつき合おうか」 あまりの言葉に衝撃を受けた。 面と向かって言われた篠宮さんは、見事に噛み砕いたようで『最低!』と吐き捨てては桐生課長に背を向けた。という事はまずい。こっちに向かってくるのでは、と思ったけれど。我が部署にはもう一つ出入口がある。 そちらから早々に扉を開けて出ていく篠宮さんに、扉に手を掛ける不審な姿は幸いなことに見られなかった。怒りで周りが見えなかったのかもしれない。あんなにもこっ酷くフラれるなんて思わなかっただろうに。 そんな事を思っていれば、不意に前に傾く身体。予期せぬそれに思わず声が出た。 「わっ」 「それで? 君は何をしているのかな?」 「……あ、と。その、忘れ物を、取りに」 扉を思い切り引かれては、雪崩れ込んだ自分。 思わず膝をついて座り込む自分に、桐生課長はいつも通りの穏やかな笑顔で問いかけた。 同時に扉を閉められる。その笑顔も相まって怖い。 「聞いてたよね?」 「……す、すみません」 立ち上がって口から出る謝罪は無意識。 嘘を吐けばいいのに、現状この人より上手に口を回す自信がこれっぽっちもない。 誰に言うつもりも無いからこのまま返してほしいのだけれど。 「別に口留めとか考えてないから」 「へ?」 「あんたと、俺。どっちが信用されるかって話」 た、確かに。そりゃあ自分より課長の信頼の方が厚い。 そもそも誰にも言うつもりは無かったけど、敢えてそういわれるとめちゃくちゃ説得力がある。 「あ、でも、篠宮さん……」 自分は言わないとしても、彼女はどうだろうか。 自分に自信がありそうだったから逆恨みをしないとも限らないのでは。もちろん自分が心配する事ではないんだけれど。 「ああいうプライド高いタイプは心配しなくても言わないよ。自分がフラれたって言うようなもんだろ」 そう言われれば大変失礼であるけれどなるほどと思ってしまった。確かに篠宮さんは言わなさそう。 人を見る目があるというか、洞察力も優れているのだろう。 「そうしてあんたはそもそも言わないタイプ。口留めしなくてもね」 「え」 「超が付く程のお人好しだろ。頼まれたら断れない」 お人好しかどうかは分からないけれど、頼まれたら断れないのは事実だ。 現に自分の仕事じゃないものを頼まれるのも多々。それでも全部が全部、すんなりと受けているわけでない。一応優先順位を決めて、現状を説明し、この持っている仕事が終わってからじゃないと出来ないと伝えることで、急ぎの人はじゃあいいと引っこめる。逆にそれでも良いという人からの仕事は溜まっていくのだけれど。 綺麗な顔が真っすぐとこちらに向いていて、ぴしゃりと自分を言い当てられる。 何も悪いことをしている訳じゃないけれど、何だか責められているような気になっては思わず視線が泳いだ。同時にこちらに近付く気配に気が付く。 まるで何か面白い物を見つけたかのように、目を細めて笑う桐生課長と目が合った。 「どうせあんたも、俺の見た目と外面が好きなんだろ?」 そう言って一歩一歩近付いてくる男に、思わず後ずさる。けれどすぐに誰かのデスクに阻まれた。 正直陰ながら桐生課長を見ていた自覚はある。そりゃあ見るだろう。こんなにも顔が整っていて、優しくて、乗せる笑顔も素敵で、感覚的には砂漠化のオアシス。仕事内での癒し的存在だった。 そんな憧れの人が、自分を囲うように両手を誰かのデスクに付ける。 「あの女に言った通り、あれでもいいならあんたとだってつき合うよ」 いつも通りの柔らかい笑顔で、通る声は穏やかだった。 あれでもいいならつき合うという事は、好きにはならないけど、性欲の捌け口にしてもいいならつき合うという意味で。 目の前にいる憧れの人から出る、とんでもない提案に脳はすっかり混乱している。 「え、えっと、そうですね……桐生さんの見た目と外面が好きだったので結構です……」 そうして疲れ切った思考はとても正直に口にした。 目を丸くするのは桐生課長。顔面蒼白になるのは自分。とんでもなく失礼な事をいってしまった。 桐生課長が呆けているのを良いことに、囲む腕をしゃがみ込んでは抜け出す。 「お、お疲れさまでした!」 バタバタと逃げるように、全力で会社を飛び出した。 スマホを取りにきたっていうのに一体何しに戻ったのか。結局回収できてない。一日ぐらいスマホが無くてもどうってことないだろう。取りに帰ろうと思った時とは真逆な思考。 結構ですと言った自分に、目を見開いた桐生課長の顔が忘れられない。 いやだってあんな二面性の人とつき合うって。無い無い。そもそも好きじゃないのに性欲の捌け口って言い方。普通にこわいよ。仰る通り顔と外面だけが好きだったから勘弁してほしい。 「……ふぅん」 そうして誰もいなくなったフロアで一人。とあるデスクの上で点滅するそれ。 手にとってはまるで新しい玩具を見つけたかのように笑う男を、自分が知る術はない。 この時、スマホを回収しなかったことを、自分は後で死ぬほど後悔することになる。
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