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ep2.「俺と結婚しない?」
(……無い、無い……!)
スマホの行方がどうしても気になって、大分早めに出社してしまった。
それなのに、どうしたことか。置いていたと思っていた場所にスマホが無いのである。
何処にいったのか。自分のデスクを隈なく探すが一向に見つからない。
絶対にある筈なのにと、それは確信していた。だって昨日は会社でスマホを使ったのだ。帰る時に気が付いて、その間に使用した記憶はない。
「うそでしょ、ど、何処にいったんだろ……!」
やっぱり見て帰れば良かったと後悔するも、昨日の出来事を思い出して首を振る。昨日あの状況でその選択肢は無かった。でも心当たりはデスクにしか無い。
とりあえず一旦電話を掛けてみよう。マナーモードにしているけれど、まだ誰も出社していないから振動音ぐらいは聞こえるだろう。
私用ですみませんと内心謝りながら、社電から自分の番号を押す。
コール音が鳴っているけれど、振動音は聞こえなかった。という事はつまり近くには無いという事で。
最悪だ。スマホを失くしたとなると個人情報もそうだし、連絡先も、アプリ情報も、全てが無くなるという事である。思わず眩暈がした。何だか財布を無くすよりショックかもしれない。
とりあえず、まずは契約してる会社に電話して止めてもらうようにお願いして。ぶつぶつと思考を張り巡らせていたその時。
「おはよう」
「うわあっ!?」
肩をぽんと叩かれて、それはもう、朝にそぐわない大音量で叫んでしまった。
振り向けばそこには桐生課長が。絶叫した自分とは違って、いつも通り朝から爽やかな笑顔を乗せている。
「おはよう。今日は早いね」
「あ……、おはようございます。えっと、ちょっと、スマホを置いて帰ってしまって」
二度挨拶されてはこちらも返さない訳にはいかない。とりあえずは挨拶をして、素直に現状の説明をした。
自分はスマホの為に早く出社したけれど、そっちだってかなり早い出社なのでは。そう思っていても口に出すことはしない。世間話すら避けたかった。
昨日の出来事が色々衝撃的すぎて、どう接すれば良いか正直わからない、というよりも極力関わりたくないが本音だ。
「……。これ、朝比奈さんの?」
「え? あ!? 私のスマホ!」
「おっと」
そう尋ねられて、そぞろだった視線を上げれば、何処から出したのか。男の手には自分が今の今まで探していたものがあった。
無いと絶望していた手前、視界に入れては思わず反射で手を伸ばす。
それなのに、ひょいっと持ち上げられてはそれを手にすることは出来なくて。
「え、あの……?」
「せっかく拾って届ける相手に、お礼も無しに取り上げるんだ?」
「……そ、それは」
確かに思わず手が伸びてしまったとはいえ、失礼な行動をしてしまった。
男が持っていたという事はやっぱり会社にあったのか。何処に落としていたのか分からなかったけれど、見つかったことに安堵する。
「桐生さんが拾ってくれてたんですね、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……。えっと、あの、桐生さん?」
お礼を言って、どういたしましてと返された。
そうして差し出す手に、何故か一向に自分が望むものが置かれない。名前を呼んで催促するも、そこにはいつも通りの爽やかな笑顔。
あまりにいつも通りなそれが、逆に不気味に映る。
「朝日奈さん、婚活してるの?」
そうして見覚えのあるページは自分のプロフィール写真。
「か、返して下さい!」
咄嗟に手を延ばしては、先ほど同様、スマホを上に上げられて届かない。
婚活している事を会社の人には知られたくなかったし、昨日の一件もあり特にこの人には知られたくなかった。
スマホにロックを掛けていなかった自分も悪いけれど、勝手に見るなんて。
あまりの不躾と羞恥に、思わず睨み上げれば男は一瞬呆気に取られたかのように目を見開く。
「へぇ、そんな顔もするんだ」
「え?」
聞き取れず聞き直したけれど、笑って誤魔化されては得られない答え。
いつものように爽やかな笑顔で無くて、意地悪を含んだような笑いだった。
きっとこの笑顔を知るのは、この会社で自分と篠宮さんぐらいだろう。
「いい加減、返して下さいってば」
「いいよ」
語尾を強めて再び手を差し出せば、今度はあっさりと返されるスマホ。
さっきのやり取りは何だったのかと疑問に思う程、行動の意図が分からず拍子抜けするのも束の間。
自分の手に乗せられたスマホの上から、そのまま手を握り込んではぐいっと引かれた。
「わっ!?」
「……朝比奈さんさ。俺と結婚しない?」
ただでさえ密着する身体にそれどころではないのに、この男、一体何を言い出すのか。
まるで信じられないものを見るかのような顔をする自分に、男は楽しそうに喉の奥を鳴らすのだ。
いや全然笑い事ではない。
「は、はい!?」
握りこまれていた手をパッと振り払っては、スマホごとその手を胸の前で抱え込む。
毛を逆立てる猫のように警戒心バリバリで睨み上げるが、全然怯んでないというよりむしろ男の笑顔が深まった気がした。背筋が凍る。
「探してるんでしょ? 結婚相手」
例え探していたって、そんな風に言われてハイ結婚しますなんていう人間がいるんだろうか。
手を振り払ったとはいえ未だその距離は近い。自分も昨日の一件が無かったら頷いていたかもしれない程、悔しいけれどその顔はとても整っている。
だけどこの婚活で自分は学んだ。結婚相手は顔じゃない。いや顔も少しは選びたいけど。だけど本当に必要なのは許容できる範囲の価値観と、単純に一緒にいて居心地が良いかどうかだ。
上手くいってない自分が何をいうのかって話だけれど、とにかくこの人とは無理である。
平穏をこれっぽっちも思い描けない。
「……さ、探してないので他をあたって下さい」
というより、『もう』探してないという方が正しい。しばらく婚活はしないつもりだった。
疲れてしまったという程、自分は頑張りが足りないのかもしれないけれど、それでも疲れているのは事実。
そもそも頑張りを他と比べられるのも可笑しな話なので、もっとなんて言われたくない。
「そうなの?」
「そ、そうです」
ずいっと顔を近づけられて、思わず身を引く。
端麗な顔がこれでもかという程近くにあって顔が赤くなる自覚はあった。
「結婚したくないの? ずっとしない?」
「え。いえ、そりゃあ、ご、ご縁があれば……?」
「あ、じゃあご縁あったね。いーじゃん、俺とで」
赤くなったのも束の間。
今度は至極嫌そうな顔をする自分に対して男の表情は崩れない。
そもそもこんな流れで結婚しようとしてるなんておかしいし、絶対裏があるというか、裏しかない。
自分がいうご縁とはあくまで結婚する上で、相手を想い、相手から想われる。そんな良好な関係が築けそうな相手とのご縁である。
こんなあからさまに裏があるような取り引きを持ちかける相手とのご縁ではない。
「い、いや、桐生さんとはちょっと」
「なんで?」
「な、なんで?」
逆にこの流れでオーケーを貰おうとしてること自体おかしいだろうに。
きっぱりと、これ以上関わりたくないからと言いたいところだが、上司と部下。それは無理である。言ったところで揚げ足を取られるに違いない。
的確に、こう、諦めてくれるような理由は無いだろか。
「……しゃ」
「しゃ?」
「社内結婚はしない派なんです!」
そうして言い逃げもいいところ。
再び男の隙を掻い潜ってはダッシュで部署を後にした。
仕事場はここなので逃げ場がないことなどは百も承知。それでも就業時間までは十分時間がある。
ギリギリまで身を隠さないと危険だと、それはもう脱兎のごとく逃げ出した。
「ははっ! 俺の事絶対好きにならなさそう」
それはもう至極楽しそうに、男は無邪気に笑う。
絶対好きにならならそうと、この時吐露した想いが、後に覆ることなど男自身知らないのである。
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