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雨の夜
雨の夜だった。ソラはひとり、商店の軒先に座り込んで雨をしのいでいた。雨はざあざあ降りでやみそうになく、やんだとしたって、ソラに行く当てなどはない。だからソラは、ただ抱えた膝に顔をうずめ、サウナのような熱気に耐えながら、じっと雨音を聞いていた。
その彼の耳に、雨音以外の音が飛び込んできたのは、もう夜明けも近い頃、一番闇が深い時刻だった。派手にタイヤの音を立てながら、目の前に一台のタクシーが停まる。しばらく間が開いて、やがて中から降り立ったのは、はたちをいくつかこえたところだろうか、若い男が一人。その男は中にいる誰かに引き留められているらしく、片手を車内に残し、うっとおしそうに眉を寄せていた。街灯に照らされたその白い顔は、そっと顔を上げてみたソラが、息を飲むほどに端正に整っている。
その男が、ふと路上に座り込んだソラに目を止めた。そして、なにかを思いついたみたいに表情を明るくし、ソラに目配せをした。ソラはうつくしいひとのそんな行動にどきりとしながら、ただじっと座っていることしかできない。
「悪いけど、弟が迎えに来てるの。今日は帰るね。」
うつくしい男が、真っ白い右手でさっとソラを指し示した。ソラは突然のことに驚いたけれど、車内にいる誰かの視線が自分を撫でるのを感じ、咄嗟に身を起こし、車に数歩歩み寄ると、男に向かって、兄ちゃん、と呼びかけた。男はまたソラに目配せをしてみせると、掴まれているのであろう左手を振り払い、ソラの傍らに立って白い傘を広げた。
「帰ろう。ごめんね、遅くなって。」
「……うん。」
行き場のないソラにとって、帰ろう、なんて台詞は、これまでの人生で一度も向けられたことがないものだった。だから、人助けのつもりで芝居をしたはずが、言葉が不自然に掠れた。
男は、当たり前のようにソラの背中にてのひらを当てて歩いた。ソラは男のてのひらに示されるままに、商店街を抜けて駅の裏に向かう。そして、十分に駅から離れた頃合を見計らって、男がソラを見下ろして、にこりと笑った。
「ありがとう。しつこい客でさ、家に来るってきかなくて、困ってたんだ。」
しつこい客。家に来る。それらの言葉で、ソラは隣を歩くきれいな男の商売を理解した。男娼。はっとして見上げた男の顔は、やはり女のようにうつくしく、真っ直ぐにソラに微笑みかけていた。
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