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 東京帝都大学薬学部は、10階建ての巨大な研究棟を備えている。  ほとんど立方体に近いビルは、窓が小さくて古めかしいが威厳を感じさせた。  灰色の無機質な外観とは裏腹に、学生が新薬の研究をする様子は、活気に満ちていた。  薬学の分野では京都帝大の成果が連日ニュースを賑わし、ノーベル賞受賞者も出ている。  だが表向きは東京帝大に焦りはなかった。  客員教授として学生を指導している調月 司郎(つかつき しろう)は、薬学部研究棟の廊下をズカズカと歩いていた。  研究成果は世間に認められたものの、ウルフ賞、日本新薬開発総合大賞、そして内閣総理大臣賞にあと一歩及ばず、その悔しさを学生にぶつけていると(うわさ)されている。  機嫌が悪い日には生徒を怒鳴りつけ、反りが合わないとレポートを机上に放置したまま目を通さないとか、就職活動中に妨害された生徒もいるらしい。  パソコンでデータを打ち込んでいた翠埜(みどりの) ありすは、廊下を闊歩する調月に気づいていた。  足音の大きさとリズム、角を曲がるときにペタペタと独特の靴音を立てるからである。  出勤日には必ずと言っていいほど翠埜の研究室を訪れ、コーヒーを一杯飲んでいく。  果たして今日も足音が背後に近づいてきた。 「調月先生、お疲れさまです」 「シミュレーションの方はどうかね。  先日のニュースでは、分子標的薬に関する映像が取り上げられていたね」 「医学部で集めたデータが、この5倍くらいあれば研究の信頼性を裏付けられるのですが」  眉根を寄せて、困った顔をして見せた。  調月は右手を握り、左手の平をポンと打つと気さくな笑みを浮かべた。 「そうか、見通しは立っているようだね。  じゃあ、帰りに医学部の知り合いに、もっとデータを取るよう催促(さいそく)しておくよ」  言いながら脇に寄って身体を密着させてくる。 「こんなに沢山のサンプルを用意して一度に実験を進められるのも、京都帝大が開発したiPS細胞のお陰だ。  新薬開発の分野では京都に一歩先を越されたが、負けてはいられないぞ」 「はい、ご期待に添えるよう頑張ります」  キーボードを打つ手を休め、机に投げ出した書類に伸ばそうとしたとき、調月の手が伸びてきた。  両手で包むように優しく握った後、片手をあげて部屋を後にした。  手の平に、何かを握らされている。  ゆっくり開くと、小さな紙きれだった。  黒猫と魔法の杖を振るウイッチの、かわいらしいイラストをあしらった、付箋(ふせん)に「食事を用意して待ってるよ」と短く記してあった。
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