這い上がる六月

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 灰色の厚いカーテンは、まるで世界を拒絶するかのように、隙間なく閉じられていた。その向こうに広がる景色は、僕には無関心で届かない場所であり続けた。けれど、壁に掛けられたカレンダーのページを一枚ずつ剥がすたびに、一月から十二月までの彼女たちは、季節の移ろいを静かに告げてくれる。  今は六月、梅雨の季節。僕はカレンダーの中で六月の彼女が一番好き。指で6の数字をなぞる。 「ねぇ、知ってる?June bride、六月の花嫁は幸せになるんだよ」  残念だけど、僕は男だから花嫁にはなれない。でも彼女と結婚したいと思った。だが夫婦期間が短い。六月なのは一か月だけ。  悩んだ末、僕はカレンダーではない別の彼女と結婚することしにした。雨の日に拾った娘。名前はジュン、可愛い黒猫ちゃんだ。  この猫は僕に従順で、お手もおかわりも、お座りもすぐに覚えた。僕が贈った鈴の付いた首輪を誇らしげにかけてくれる。鈴の音色は子守唄のように安眠を誘ってくれた。  ピンとたてた黒い耳は、僕の声をキャッチするたびに動く。黒くしなやかな身体をベッドに横たえて君は何を待っているの?  狭い空間で一緒に暮らしていると、尻尾で君の機嫌が分かるようになった。上に真っ直ぐたてている時はご機嫌な時、先っちょを曲げている時は不安な時。左右に早く振っている時は不機嫌だから近づかない。  アーモンドみたいな瞳。ホント可愛いね。顎の下を撫でてやると喉をゴロゴロ鳴らして気持ち良さそう。  だいぶ懐いたみたいだ。(そろそろ良いかな?)僕は彼女にお願いしてみた。 「ねぇ、そのネコスーツのファスナー下ろしてよ」  曲線を描く膨らみの正体が知りたいんだ。全てを見てから結婚しよう。そう思った。  彼女は唇を尖らせて尻尾を左右に振っている。どうやら反抗期みたい。 「良く考えてみて、エサを与えているのは誰?飼い主は誰?」  僕の声は冷たく響き渡り、ジュンの耳をかすめて消えた。彼女にキツく言い置いて椅子から立つ。そろそろ夕食が届いてる時間だからだ。  だが、施錠を外して扉を開くと豆電球に照らされた薄暗い廊下には何も置かれていなかった。僕は首を伸ばし階下に向かって大声で叫ぶ。 「お腹空いたよ!夕食はまだ?」 すると下から怒号が跳ね返ってきた。 「もう我慢の限界!」 「は?何が?」 「働かない四十過ぎ息子に食わせるメシはない!」  嘘だろ?夕食がないなんて……。 「二十年も引きこもり、いい加減働けよ!」  僕は扉を閉めて母親の声を遮断した。うるさい、うるさい!だから思い通りにならない女は嫌いなんだよ!  僕はジュンに目をやった。考える時間を与えたのに彼女はまだ服を脱いでいない。反抗的なアーモンドアイ。こいつも僕に逆らうのか!そんな女ならいらない。必要ない。  僕は壁にたてかけてある野球バッドを持つと、彼女に向かって振り上げた。振り下ろすたび、強音が砂壁のそこかしこを突き刺し画面の中の彼女が粉々に砕けていく。最後に残ったのは無数の破片と原型をなくしたパソコンだった。  僕はダウンロードした育成ゲームのタイトルを頭に浮かべた。 【雨に濡れた可哀想なネコスーツの女の子を拾って育ててみませんか?懐くと脱いでくれます】  僕は元々、気が短い。腹が減ってればなおさら。早く懐いて脱いでくれてたら壊したりしなかったのに。  ふっとカレンダーの6を視界に映す。六月の花嫁は幸せになる。育成ゲームに浮気した僕に6が怒って泣いているように見えた。ああ……例え夫婦生活が数日だとしても。 「ごめんね、やっぱり僕にはお前しかいない。結婚しよう」  僕は六月にプロポーズした。でも、すぐに遅すぎたことに気づく。今日は七月一日、カレンダーを破る日だったのだ。 「くそったれ!」  お前までイエスをくれないのか!バッドを投げ捨て六月のカレンダーをビリビリに破る。畳に落下した紙クズ達は僕の失恋を嘲笑っているようだった。  せっかく結婚する気になったのに婚期を逃してしまったじゃないか!  なら来年の六月と結婚すれば良いのか?いや、それは違う。僕は今年の六月を幸せにしたかった。来年の六月は赤の他人だ。  七月は嫌い。この部屋にはエアコンがないので汗が滴り臭いし痒くなる。扇風機とは気が合わないし、カーテンは遮断の悪魔。足の親指の角を上手に抉れない爪切りは大嫌い。デスクもベッドもシャーペンも好みではない。消しゴムはせっかく書いたモノを消す。つまり反抗だ。  一旦落ちつくため、僕はベッド上にあるフェイスタオルを拾い上げ、ヘム(縫い目部分)を噛んだ。物心ついてからずっと一緒だった癒し。三十年以上洗っていない。  いつもの匂いが(落ち着いて)と僕の鼻腔に微笑みかけてくれる。なんとか平静は取り戻した。でも、これからどうしたら良い?腹も減って苛立ちがピークに達している。  とりあえず今は冒険の旅に出る必要があると思った。階段を下りキッチンに行き冷蔵庫を漁るべきだからだ。キッチンに辿りつくには居間を通るので、母という名の鬼がいる。自分は勇者、鬼退治に武器は必須だ。  僕は床に転がるバッドを掴んだ。自分に逆らうヤツは敵。敵は倒さねばならない。粉々に砕くだけ。……ただ、それだけ。簡単なことだから。  ミシッミシッと音をたて、僕は光の届かないトンネルの暗闇に入った。  二十年以上続いている雨が雷鳴轟く豪雨に変わる。唯一無二の親友が消えてしまったからだ。僕とタオルを引き離したのは赤い回転灯。  僕は回転灯の手下二人に身体の自由を奪われた。長い黒髪を振り乱し絶叫。毛先から、そこかしこに舞うのは白いフケ。共に歩んだ仲間達だ。さあ、ここからはダンスタイム。僕は毛先とフケに命じた。 「お前らは自由なのだから狂気乱舞を披露してあげなさい」  視界はまるで万華鏡のように曖昧に形を変える。全てが黒く塗りつぶされる前、耳はこんな言葉をキャッチした。 「部屋と、この太った男の悪臭には耐えられない」    闇の中、女性の半膜の中に存在する液体。生温かい羊水に身体を浮かせながら僕は思う。その部屋はどんな部屋なのだろう?太って悪臭を放つ男とは誰だ?興味深い。一度で良いから、ぜひとも会ってみたいものだ。  間もなく、閉ざされたカーテンが開かれ、僕はすっかり忘れていた窓の外を知った。  外は無機質な四角い箱だった。差し込む日光の道筋は頼りなく、踊るように舞い上がるホコリたちがキラキラと輝いていた。見上げた視界に映る小さな鉄格子の窓。鉄格子は男だった。名前は哲也。彼は緩く微笑んで手招きをする。 【ここまで昇れたら結婚してあげる】  瞬間、僕は男ではなく女になることを決意した。  哲也を求めた指が白い壁を這うように上るけれど届かない。触れられない。折れた爪が可哀想で泣きたくなる。  梅雨は続く、まだまだ続く。もう、わたしの心臓はびしょ濡れよ。  正座をして待っていると、時間通りに食事が運ばれてきた。ここに鬼はいない。みんな優しい人達ばかり。  ああ、六月まで後どのぐらい?カレンダーがないから分からない。  食事を終えると、わたしはまた壁に両手を伸ばす。  第二関節、第一関節を曲げ、血に濡れた爪が壁を這い上がる。後少し、もう少し……。  結婚するの。彼としたいの。  次の日、僕は部屋を出て個室のパイプ椅子に座らされた。対面には担当医師と見知らぬ人。二人共、男性だ。 見知らぬ人が僕に尋ねた。 「そろそろ、お母様を殺害した事情を話してくれないか?」 鬼が死んだ?そんなことは知らないし関係ない。だから僕は笑ってこう言った。 「ねぇ、知ってる?June bride 六月の花嫁は幸せになれるんだよ」 「ダメだ。完全に精神が壊れてる」  長い息を吐く見知らぬ人。医師が眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。 「田辺清(たなべきよし)さん、明日からもうニ錠、薬を増やしましょう」 久々に見た窓の外はどしゃ降りの雨だった。 まさか、もう六月なのか、まだ六月なのか?わたしはまだ鉄格子に触れていない。  強く噛んだ唇からは錆びた鉄の匂いがした。哲也は山の頂上に立ち、わたしを待っている。花嫁を迎えるための白いタキシード姿。ああ……嬉しい。  爪先立ち、両腕を限界まで上に伸ばし  ガリガリガリ……。例え壁を黒赤く染めようと  昇れ、這い上がるんだ!六月へ……。
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