第1話

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 とりあえず、家の左手へ行ってみる。  角を曲がると縁側があり、そこに面した和室から明かりがもれていた。開け放たれた障子から、隅に置かれた照明――たぶん行燈――と床の間、その前に座っている人物が見える。  その人は机で本を読んでいた。深い色の着物姿で、長い白髪は縛られずに肩から流れている。どうやらおばあちゃんのようだった。明かりは行燈一つのみなので室内は薄暗く、目鼻立ちはハッキリしない。うつむき加減で本に視線を落としているので、余計に顔が見えづらかった。  こんな所にお年寄りが一人暮らしなんて、不便なんじゃないのだろうか。それとも、近くに人が住んでいるのかな。  そんなことをつらつら考えていると、気配に気付いたのかおばあちゃんが顔を上げた。 「誰だい」  あ、そっか。  行燈のお陰であたしは室内が見えるけど、おばあちゃんからは暗闇にいるあたしが見えないんだ。そこに思い至って、怖がらせてはいけないと明かりの方へ進み出る。おばあちゃんは見知らぬ人間におや、というように首を傾げた。 「あ、あのっ」  声を発したものの、この後何て続ければいいのか。お化けに追いかけられているんです、と初対面の人にバカ正直に話すわけにもいかない。  困っているのが伝わったのか、おばあちゃんが助け船を出してくれる。 「そんなところにいないで、よかったら上がりなさいな」  どうやら不審がられてはいないみたい。親切な申し出に胸を撫で下ろした時、何かに引っかかった。  何だろう……何かに違和感があった。 「どうしたんだい」  動こうとしないあたしに、おばあちゃんが声をかけてくれる。心配してくれる言葉に、あたしは安心ではなく寒気を覚えた。 ――今のは聞き間違い? 怖がっているから、そんな風に聞こえただけ?  頭の中で疑念を打ち消すけど、体はおばあちゃんのそばへ行こうとはしなかった。 「こっちへおいでなさい」  着物の袖から白い腕が出て、ゆっくりと手招きする。その呼ぶ声に、もう違和感を誤魔化すことはできなかった。  あたしはじり、と後退る。静まっていた心臓が、また騒ぎ出した。  相手はなおも手招きして、あたしを座敷に誘っている。腕はいやに生っ白く感じられた。床にのたうっていた長い白髪が、ざざっと畳をする。  そこで耐えきれなくなったあたしは、勢いをつけて(きびす)を返すと一目散に逃げ出した。脇道の入り口にいるかもしれない少年よりも、今はすぐそばにいる老婆の方が恐ろしかった。  門をくぐり抜け雑木林の道をひたすら駆ける。脳裏に白髪の老婆の姿が浮かんで消えなかった。 「あの、おばあちゃん……」  姿形は老婆だった。  けれどーーその声は、低い男のものだった。
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